え、こだまの世界?

A day in the life of...

伊勢田先生へのリプライ

遅くなりましたが、伊勢田先生のコメントに対するリプライです。以下、引用してあるのは、伊勢田先生のコメントです。

本書は18世紀から21世紀にまたがる功利主義をめぐるさまざまな論争を「功利主義」対「直観主義」という対立軸で捉えた意欲的な本である。私自身、18世紀あたりは不案内で、いろいろ勉強になることが多かった。内容も、ヘアやロールズの紹介など、わたしに分かる範囲ではおおむね正確だと思われる(『道徳的に考えること』の出版年が1986年になっていたりという細かいミスはあるが)。ただ、110ー111ページのムーアと(メタ倫理学的な)直観主義の関係についての記述が若干疑問である。そこに話をしぼって「バグとり」をしたい。

 ヘアの『道徳的に考えること』の出版年、ご指摘に従って修正しました。ありがとうございます。

著者は「[ムーアは] 善の理論に関しては善さの証明は不可能だと述べるだけでその認識の方法については特に何も語っていない」(p.110)というが、『倫理学原理』(以下PE。原文はオンラインで読める) 第三章の45-46節、55節、第六章の112節などでこれについて不十分とはいえ言及しているので「特に何も」は言い過ぎである。簡単にまとめると、あるものが価値があるかどうかは、それを他のものと切りはなして孤立させたときに、やはりその存在が善いと思えるかどうかを見る(PE 55節、112節)。これはシジウィックが言う直観と同じものだが(PE 45節)、論理的な証明のような力はなく、間接的な証明にのみ使える、とムーアは考えている(PE 46節)。

 ご指摘と丁寧なリファレンスをありがとうございます。ご指摘の箇所を確認したところ、確かに何ものかが善いかどうかをどうやって知るのかについては語っているので不正確な表現でした。ただし、わたしがこの文章を書いたときに念頭にあったのは、『倫理学原理』序文の”I mean merely to assert that they are incapable of proof; I imply nothing whatever as to the manner or origin of our cognition of them.”(p. 36)というところで、これは18世紀のモラリストたちが論争していたような、理性か道徳感覚かというような認識の方法については踏み込まないぞ、ということです。言い換えると、伊勢田先生の「あるものが価値があるかどうかは、それを他のものと切りはなして孤立させたときに、やはりその存在が善いと思えるかどうかを見る」の「見る」の部分について、それがどういう意味で「見る」のかは語らないということです(PE第86節も参照)。

修正案:「不可能だと述べるだけで、それまでの直観主義者たちとは違って、その認識の方法」という表現を追加する。また、注でisolationの話を書いておく。

それに続いて著者は「ムーアの理論は(中略)シジウィックのそれと似ているが、ムーア自身にはそのような認識はなかったように思われる」(p.110)と書くが、すでに上の記述からも分かるように十分ムーアはシジウィックの方法論を意識している。PE 第三章の後半で確かにムーアはシジウィックの快楽説を批判するのだが、シジウィックが自然主義的誤謬を犯していないことは最初に断られており、シジウィックに対する反論は、シジウィックの直観にムーアの直観をぶつける形になると説明されている(45節)。それ以後の議論も、直観を使う際の手法や注意の向け方など、かなり細部にわたる反論である。つまり、両者の差が基礎的な価値論的直観の微妙な差であり(しかもムーアは快楽が「唯一の」善だというところに反対しているので、価値論においても対立は実はそれほど大きくはない)他のところはかなり共通しているということがこのあたりの議論から見て取れるわけである。ムーアがその類似性を意識していないというためにはよほど強い論拠が必要だろう。
 次のページで著者は、さらにムーアに追い打ちをかける。「ムーアはシジウィックがシジウィック自身の直観主義と通常の直観主義を区別できていなかったと『倫理学原理』の序文で述べているが、(中略)ムーアの指摘は正しくない。」(p.111) これが本当ならムーアをシジウィック流の意味での「直観主義者」と呼ぶのは問題かもしれないが、ここまで書いたことから言っても、ムーアがそんな誤解をしていたとは考えにくい。実際に序文を見てみると、ムーアの原文は以下のとおりである。"Sidgwick himself seems never to have been clearly aware of the immense importance of the difference which distinguishes his Intuitionism from the common doctrine, which has generally been called by that name." 一読すれば明らかなように、ムーアの批判は区別のimmense importanceをシジウィックが理解していないということであり、そもそもの区別ができていないなどという批判ではない。この言い方からすれば、ムーアはむしろ自分がシジウィック流直観主義者であることを強く自覚しており、だからこそそれを通常の直観主義から区別することにシジウィックも意識していないようなimmense importanceがあると言っているのではないかと思われる。
 以上のコメントを整理すると、結局、ムーアはシジウィック流の直観主義者だったという通常の教科書的記述で特に問題はない、という結論になると思われる。
 ただし、このあたりの誤読は、本書全体に波及するほどの問題ではない。著者は、結論としては、シジウィックとムーアが道徳認識論的な直観主義と規範理論としての直観主義を切り分けたという評価をしており、単にムーアがそれをよく認識できていなかった、という論調になっている。本書全体に影響のある前半部分についてはわたしも異論はない。

 重要なご指摘ありがとうございます。ご指摘の点は、「ムーアとシジウィックの理論が構造的に似ていること」ではなく、「そのことについて、ムーア自身が気付いていたかどうか」が問題になっており、伊勢田先生が正しく但し書きをされているように、この問い自体は本文の筋に大きくは影響しないと思われるものの、大変興味深い論点だと考えます。
 伊勢田先生も原文を引かれている箇所については、「シジウィック自身は自分の直観主義(哲学的直観主義)と、その名前で一般に知られている通常の教義(教義的直観主義)の区別の甚大な重要性を明確に理解していなかった」というのが正確な訳かと思われます(正確に表現すべきでした)。しかし、わたしはこの主張自体が、ムーアのシジウィック理解の浅さを示しているのではないかと思っています。シジウィックが両者の区別の重要性を十分に理解していなかったというのは、たとえ重要性の前に「甚大な」という形容詞が付いたとしても、ありえないのではないかと考えます(この点については、『功利と直観』第四章のI参照)。
 上記の争点については、より詳細な研究が必要かと思いますが、一つの傍証として、PE第36節におけるムーアのシジウィック理解を指摘したいと思います。この節でムーアは、シジウィックはHedonismが持つ直観主義的なベースを適切に理解していた、つまり、功利主義においても、「快が唯一の善である」といった哲学的直観が必要であることを認識していたと評価しています。これ自体は至極もっともな指摘ですが、その後にムーアは、この点をシジウィックは「新しい発見」と考えたと述べ、続けて、「(シジウィックは)直観主義の「方法」と彼が呼ぶものは、功利主義と利己主義という別の「方法」と並行して、またそれどころかその基礎として、維持されなければならない」と主張したと述べられています。この箇所を見ると、ムーアはシジウィックの教義的直観主義(「直観主義の方法」)と、快楽説を基礎づける哲学的直観主義とを十分に区別できていないように思われます(教義的直観主義、哲学的直観主義については『功利と直観』97ページ参照、「方法」という用語については第四章注4参照)。
 したがって(というには飛躍がありますが)、ムーアは、(ハーカらがすでに指摘しているように)多くの点でシジウィックの議論に負いつつも、善と正の理論の組み合わせによる自分の道徳理論の理論的な構造が、シジウィックのそれと非常に似ていることについては、十分な自覚がなかったのではないかと考えます。

修正案:上記二段落目の訳を反映させる。上記三段落目を修正して注として挿入する。

それにしても、シジウィックとムーアによって、「直観」という言葉にまったく新しい意味が与えられたことは認めるのに、著者はそれをあえて無視して20世紀の倫理学の分析においても「直観主義」という言葉を19世紀的な意味で使い続ける。そのために、シジウィックやムーアがもたらした概念的な革命やその恩恵を過小評価することになってしまっていないだろうか。著者は20世紀の反功利主義の規範理論を「義務論」と呼ぶことで「議論の連続性が失われた」という(p.133)。しかし同じ立場について名前が変わるだけで議論の連続性が失われるのであれば、18世紀と19世紀の間でも連続性が失われているはずである(著者は18世紀のさまざまな立場にもアナクロニスティクに「直観主義」という言葉を適用することでそれを見えにくくしている)。19世紀と20世紀の議論は、言葉遣いのせいで見かけ上不連続なだけでなく、やはりかなりの程度まで内容的に不連続だと見た方がいいのではないだろうか。

 ご指摘ありがとうございます。本書ではシジウィック(一九世紀)までの議論とムーア(二〇世紀)以降の議論をつなぐことで、直観主義功利主義の対立が現代まで続いていることを論じてきましたが、わたしの力量不足でそれが十分に論証できていないというご批判と理解し、今後の一層の研鑽を積みたいと思います。なお、このテーマで研究を始めたときには、わたしと明確に同じ考えをしている論者は知りませんでしたが、研究を進めていくうちに、W.D. Hudson (1980)および、Hurka (2003)が類似の見解を持っていることに気付きました。ハドソンはヒューウェル対ミルという直観主義功利主義の構図が、ウィリアムズやヘアに至る時代まで続いているという形で議論をしております(今日、彼の著作はあまり知られていないので、影響力はそれほど大きくなかったものと思われますが)。また、ハーカは、ムーア自身や、1960年代、70年代の倫理学のテキストが想定しているような、「現代倫理学はムーアから新しく出発する」というのは正しくなく、ムーアの理論は、シジウィックからロス(あるいはユーイング)までの連続的な理論的発展の中間に位置する(Moore in the Middle)という風に主張しています。われわれ60年代、70年代の倫理学のテキストを読んで育ってきた人間としては(?)、このような視点は十分に考慮する価値があるのではと考えます。
 また、18世紀の倫理理論を”Intuitionism”と呼ぶアナクロニズムについては、確かにその問題は根本的な批判としてあると思います(また、功利主義とは違い、直観主義者と言われている人々は、その名称を自認することはほとんどない点も注意が必要です)。ただ、シジウィックの『倫理学史』やHudsonのEthical Intuitionism等、通常18世紀のモラリスト直観主義者と呼ばれており、内部の思想的対立など十分な注意を払えば、この言葉で呼ぶことは、思想史の流れを把握する上では、十分に意味のあることだと考えます。

修正案:上記二段落目に当たる部分を、注として入れる。

「義務論」という言葉を使わないことのもう一つの影響として、1970年代以降の規範倫理学・応用倫理学で大きな役割を果たしてきたカント主義がほとんど取り上げられないという奇妙なことがおきている。カントとロスが同一陣営として功利主義に対抗するという図式は「直観主義」という言い方にこだわっていると不可解なものになる(カントは著者の言う19世紀的な意味での直観主義者ではない)。連続性にこだわるあまりその時代時代の争点がちゃんと表現できなくなるのであれば、それは連続性を重視することの弊害だといえそうである。

 最後に大変重要なご指摘ありがとうございます。ご指摘の点が本書で書き切れなかった一番のポイントの一つです。わたしが十分に研究できていれば、「義務論」という語の命運についても一章書くことができたと思います(第五章注16参照)。
 それと関連して、研究不足で書けなかったもう一つのテーマは、この論争全体におけるカントの位置づけです。すでに本書を読んだ人にはわかるように、カントはコールリッジによって英国に紹介されて以降、功利主義者と直観主義者の間で「取り合い」になっています。重要なポイントは、「カントとロスが同一陣営として功利主義に対抗するという図式」は、直観主義者(あるいは広く反功利主義者)によって描かれた図式だということであり、これが現在広く流通しているため、たとえばサンデルの『これからの正義について語ろう』では「カントは功利主義を批判していた」というまさにアナクロニスティックな主張がなされるに至っています。しかし、このようなカントの位置づけは、ヘアもシンガーも、ハロッドも、シジウィックも、おそらくはミルも受け入れなかっただろうと思われます。カントのどの部分が功利主義者に受け入れられ、どの部分が直観主義者に受け入れられ、そして今日の「功利主義対義務論」という図式になったのか、カントを中心にもう一章、あるいはもう一冊の本が必要だと考えています。

批判的なコメントをつけたが、英米倫理学の19世紀と20世紀を連続的に読む試みによって20世紀の倫理学のこれまであまり光をあてられなかった部分に光があたっているのは確かであり、そういう意味では本書の試みは成功だったと言ってよいだろう。

 さまざまな啓発的なコメントをいただき、ありがとうございました。回答としてはいささか不十分ではあると思いますが、伊勢田先生のコメントに答える中で、自分の修正主義的な倫理思想史観の足りないところ、今後の研究を必要とするところが、よりよく見えてきました。今後より一層の研究に励みます。