え、こだまの世界?

A day in the life of...?

嘘をつくことについて

梅原猛の授業 道徳 (朝日文庫 う 10-3)

梅原猛の授業 道徳 (朝日文庫 う 10-3)

人間、嘘をついてはいけません。嘘は泥棒の始まりという言葉がありますね。私は嘘つきは大嫌いです。(154)

かっこいいなあ。「私は安楽死は大嫌いです」「私は代理出産は大嫌いです」とか、そういう個人的な感情を文章にできるというのはすごいと思う。

研究者だと、こういうことを言ってはいけないと思っているわけだが、それは何でだろう。「私はニンジンは大嫌いです」という表現は許されるが、「私は脳死は大嫌いです」という表現は研究者としてはタブーだというのはなぜか。個人的な意見ではなく、普遍化できる主張が求められているからだろう。ヒュームの
あれだ。

When a man denominates another his enemy, his rival, his antagonist, his adversary, he is understood to speak the language of self-love, and to express sentiments, peculiar to himself, and arising from his particular circumstances and situation. But when he bestows on any man the epithets of vicious or odious or depraved, he then speaks another language, and expresses sentiments in which, he expects, all his audience are to concur with him. (Hume: EMOR Sec. 9 Pt. 1 Para. 6/13 p. 272 gp. 248)

嫌いだというのは、趣味の問題と同じで、普遍的な視点というのを前提としてないと理解されるんだな。「あんたは嫌いかもしれないが、俺は好きかも知れないし、二人の意見が食い違っていても問題ないかもしれない」わけだ。

それはともかく、梅原先生はすべての嘘がダメとは考えていない。がん告知における嘘のように「その人のためを思った嘘」は許される。

しかし、人を救う嘘、人の世を明るくするような嘘は許されると私は思いますね。・・・いちばんいけないのは、人をだます嘘です。(160)

がん告知における嘘も、「人をだます嘘」だと思うが。まあ、好意的に解釈して、他人や世の中のためを思った嘘はホワイト・ライで許されるが、自己利益から他人を欺く嘘は許されない、ということか。ある程度明確に区別できる場合があるなら、功利主義的にはそれで許されそうだ。

また、芸術というものも嘘かもしれません。文学や絵画や音楽というのも、許される嘘の世界かもしれません。(159)

これは「嘘」の定義をはっきりさせる必要がある。虚構、あるいは現実や事実を反映していないものはすべて「嘘」と呼ぶべきか。あるいは、「だます」という意図を含まないと「嘘」と呼ぶべきでないか。しかし、文学はまだしも、絵画や音楽が嘘というのはどういうことだろう。音楽はみんな「嘘」というのは、理解しかねる。想像の産物だから?