現代ビジネスの『自由論』の紹介でいくつか書けなかったことのメモ。
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今回、加藤先生の『応用倫理学のすすめ』(1994)を読み返したが、第一章「ヘアヌードと他者危害の原則」は今も読む価値がある。時事問題を扱って論じているために、古い本と思われて読まれなくなるのは残念。山田卓『私事と自己決定』(1987)も同様。
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ただ、加藤先生は他者危害原則によって経済的自由主義(レッセフェール)も正当化されると考えているが(10頁以降、また『現代倫理学入門』(1997))、これはミルの発想とは異なる。『自由論』の第5章で論じられているように、経済的自由主義(自由交易の学説)は「この論文で主張されている個人の自由の原理と同様に、堅実なな根拠にもとづいているものであるけれども、それとは異なった根拠に基づいている」(翻訳324頁)、つまり言論の自由における真理の価値や、行動の自由における個人の幸福や個性の発展の価値とは、別の議論が必要になるということだ。ミルは経済的自由主義も基本的に支持しているが、当時興隆しつつあった社会主義の可能性も検討しており、言論や行動の自由に対してほどは絶対的な支持を与えていなかった。この点については、私は加藤先生の解説から入ったため、しばらく気付かなかった。
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また、ついでに、加藤先生の「そもそもポルノ規制の倫理問題についてはイギリスのワーノック委員会の報告を範とすべきであって…」(4頁)は、「(バーナード・)ウィリアムズ委員会」の間違いだろう。この誤りは加藤尚武著作集(第15巻)にも引き継がれている。
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「日本の高校の教科書では民主主義は教えても自由主義や他者危害原則は教えていない。」の部分は、手元にある現代社会、倫理、政治・経済などを参照して確認したが、「自由主義」という言葉が索引にないものがほとんどで、本文にある場合でも意味が説明されていなかった。「公共」ではこの点が改善されることを望んでます⇒関係各位。
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ミル『自由論』の翻訳は、自分がよく読んでいろいろ書き込みをしている世界の名著訳を使ったが、光文社古典新訳文庫のものが入手しやすく、訳も安定していると思う。ただ、長谷川宏による解説が悪くはないが、ミル研究を踏まえたものではないため、あまり参考にならない。あと、すっかり忘れていたが、最近になって岩波文庫でも新訳が出た。
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ハリエット・テイラーとミルの関係については、ハイエク、メンダスなどミル研究者の多くが一家言持っているようで、おもしろい研究テーマ。
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トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』で重要なのは第2部第7章「合衆国における多数の全能とその帰結について」のあたり。岩波文庫の訳だと第一巻(下)にある。「モリエールは宮廷で上演した作品の中で、宮廷を批判したものである。だが合衆国を支配する権力は、そのようにして自分がからかわれるのをまるで喜ばない。最小の非難にも傷つき、僅かな棘を含んだ真実にも怒り狂う。言葉遣いから身持ちのよさに至るまで、ともかく誉めねばならぬ。」「もしアメリカにいまだに大作家が出ていないとすれば、原因を他に求むべきではない。文学の天才は精神の自由なくして存在せず、アメリカに精神の自由はない。これが原因である。」(156頁)
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今回は行動の自由を論じた第3章がもっとも読まれるべきだと述べたが、言論の自由の重要性を論じた第2章もぜひ読むべき章。「悪魔の代弁者」の話や「死せるドグマ」の話など、いろいろ心を動かされる名文が出てくる。以下は、真理はそれが真理として生き生きと理解されなければ意味がないという文脈での一節。「あらゆる国語と文学は、人生とは何か、そしてまた、そこで人はいかに行為すべきか、に関する、人生について一般的な所見に満ちている。これらの所見は、誰もが知っており、誰もが繰り返して述べ、あるいは黙々として聞き、分かり切ったことと考えられているにもかかわらず、ほとんどの人は、経験によって、たいていは苦しい経験によって、人生が彼らにとっての現実になったときに初めて、その意味を本当に学ぶのである。人は、何か予期しなかった不幸や失意に悩む時、日頃非常によく知っていたある格言ことわざを、いかにたびたび思い起こすことであろう。これらの言葉の意味を、以前にも、今と同様に実感していたとすれば、彼らは、この災難におそらく会わずにすんだに違いない。」(翻訳264頁)
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行動の自由を論じた第3章についても、加藤先生はあまりその重要性を強調していなかったため(他者危害原則の適用の限界と、他者危害原則が功利主義と調停できるのかに力点があった)、私がその重要性に気付くのは遅かったように思うが、行動の自由がなぜ重要かを説得力を持って論じている。とくに「生き方の実験」(生活の実験)というキーワードは、一度聞くと忘れらない視点を与えてくれる。「自己の実験が、他人に採用されたときに、従来の慣行をいくらかでも改善することができそうな人は、人類全体からみればわずかしかいない。しかし、これらの少数者こそ、地の塩である。彼らがいなければ、人間の生活はよどんだ水たまりのようになるであろう。」(翻訳289頁)
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他者危害原則を理解するうえで重要な点を6つほど挙げたが、その他に重要な点としては、加藤先生も問題にしている「他者危害原則が功利主義的に正当化できるのか」という問題がある。ミルは抽象的な正義による自由の基礎づけは用いないと第一章で明言しており、「進歩する存在としての人間の恒久的な利害に基礎をおく、もっとも広い意味での功利」によって自由が基礎づけられるとしている。この点は研究者の間では議論になるところだが、今回は割愛した。
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また、パターナリズムの排除だけでなく、ミルは(リーガル)モラリズムも排除している。「他の人々の意見によれば、そうすることが賢明であり正しくさえあるからといって、彼になならかの行動や抑制を強制することは、正当ではありえない」(翻訳225頁)。つまり、「あなたの利益になりますよ」という根拠とは別個に、「そうすることは道徳的に正しいんですよ」という根拠から、他人に強制することは許されない、と主張している。リーガルモラリズムとは、たとえば「同性愛は道徳的に間違っている」という根拠から、違法行為とすることを指す。これはパターナリズムとは区別されるべき重要な論点だが、細かいので割愛した。
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ミルは未成年だけでなく未開の民族に対するパターナリズムも支持しており(翻訳225頁)、当時の大英帝国的な雰囲気を思わせるが、この点も割愛した。
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「ミルの言う「危害」に不快は含まれない」については、ミルの他者危害原則の一つの論点は「危害とは何か、何でないか」であり、詳しく議論しなかったが、さらに議論が必要なところ。ミルが明らかな危害と考えていたのは身体的な危害であり、不快感は規制の根拠にならない、と考えていたが、今日、不快を問題にする「ハラスメント」の規制が問題になっており、線引きが曖昧になっている。誰かの発言や行動に不快感を抱く人がいるのは遺憾なことであるが、それを理由に発言や行動を抑圧することは、ミルならば自由主義の精神に反するものだと主張するだろう。重要なのは議論をすることであり、相手の意見を封殺することではない。
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「同意していなければ危害に相当することであっても、当人同士が同意していれば、危害にはならない」というのは自由主義の原則で、ミル自身の言葉では、「個人のみが関係することにおける個人の自由は、これと呼応して、幾人かの人々が彼らに共通に関係し、彼ら以外の人々には関係しないようなことを相互の同意によってとりきめる自由があることを意味する。」(翻訳332頁) これはたとえば同性愛行為の合法化を論じたウォルフェンデン報告などの発想につながっている。ただし、ロックと同様、ミルも奴隷契約は自由主義的に認められないと議論している。
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以下は今回参考にした本。今回読み返さなかったが、『ミル『自由論』再読』(2000)は、アイザイア・バーリンをはじめ、ミル研究者が自由論を論じた著作を集めた翻訳で、研究者としては必読文献。
このスコラプスキの本でも自由論の立ち入った解説がある。ニーチェとの対比も出てくる。
これはオープンユニバーシティ用の教科書だが、英語圏で自由論をどう読むのが標準的かがわかる本。ミルの自由論の解説でミルトンの『アレオパギティカ』の議論との対比も出てくる。