え、こだまの世界?

A day in the life of...?

買った本 (歎異抄その他)

まだまだ机に積んである。

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

歎異抄 (岩波文庫 青318-2)

仏教も勉強しないといけない。現代語訳が付いているのかと思ったら、違った。講談社学術文庫のも買うかな。

これによって弥陀の本願の普遍真実である道理は明らかである。しかしその道理は信心せらるべきものであって、知解せられるものではない。人智の及ばないところに如来の本願は進ぜられるのである。したがってそれはただ「教」として聞かねばならない。しかるにその教を説けるものは釈迦である。・・・そしてその釈迦の教説は、善導・法然親鸞へと伝えられた。(解説15-6頁)

Argument from authority.

倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

書籍部で少し安くなっているので、購入しておく。現代社会に必要なのは、理性による自由を中心とするカント的な倫理である(そしてそれを通じて達成される、消費-生産協働組合のアソシエーション)、というのが基本的な主張のようだ。

第七章「幸福主義(功利主義)には「自由」がない」。カントは「善を幸福によって基礎付ける幸福主義(功利主義)を批判した」(123)。幸福主義=功利主義という言い換えが少し気になるが、それはいいとして、第四章を見ると、「幸福主義−−善を幸福から説明する功利主義的な考え−−も、根本的に感覚や感情にもとづいており、諸原因に規定されるから、「他律的」なのです」(79頁)。傾向性に基づくという意味で他律的。この意味なら他律的でも問題ないと思えるが、「自由がないならば、主体が無く責任がありえない。そこには、自然的・社会的な因果性しかない」(79頁)。傾向性に基づくかぎり、自由意志はないから、責任もない。しかし、この議論を真面目に受け取ると、責任を問える行為はほとんどなくなるのでは?

責任は、われわれが自由である、すなわち自己が原因であると想定した時にのみ存在します。現実にはそんなことはありえない。私が何らかの意図をもって行動しても、現実にはまるで違った結果に終わる場合がある。しかし、その時でも、あたかも自分が原因であるかのように考える時に、責任が生じるのです。(84)

あれ、「(責任を問うための前提となる)本当に自由な行為はあるのか」という話が、「意図した行為と結果とがずれる可能性がある」という話に変わっているのかな。単に「あたかも自分が原因であるかのように」考えれば、責任が生じるというのであれば、傾向性からの行為を認める功利主義でも問題なさそうだが。責任と自由意志の問題はよくわからないので、古典の研究と脳科学の研究も含めて、もうちょっと真面目に勉強しよう。

第七章には「幸福主義では環境問題は解けない」という節もある(123頁以降)。功利主義は人を目的として扱わず、手段としてのみ扱う、資本主義的発想である。しかるに環境問題は、未来の他者(未来世代)を目的として扱わなければ解決しない問題である。したがって、功利主義は環境問題を解けない、ということらしい。小前提もあれだが、やはり大前提を問題にしないとな。功利主義を利己主義と同一視する誤りを犯しているとしか思えない。と思うが、もうちょっとよく読むようにしよう。

仏教vs.倫理 (ちくま新書)

仏教vs.倫理 (ちくま新書)

これもタイトルに「倫理」が付いているので、購入しておく。勉強しよう。

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

某師匠に勧められた。人間の生における(しばしば理性と対置される)情動の役割について。たしかにおもしろい。

あと、雑誌。『世界』9月号、特集「死刑制度を問う」。そのうち読むかも。『思想』7月号、「ジョン・マクダウェル」。これもそのうち。『現代思想』8月号、特集「ゲーム理論」。利己性とか合理性についての説明が気になるが、これもそのうち。

今日はここまで。あとは勉強しないと。