え、こだまの世界?

A day in the life of...

倫理について

今日の某フォーラムのときに考えたことを雑然とメモ。

  • 一般人の「倫理」理解について、もっとよく考える必要がある。これまで、一般人の「倫理」理解は浅薄だとして無視してこなかったか。「『倫』はなかま、『理』はことわり、すなわち『倫理』とは人間共同体の存在根底としての秩序である」(子安宣邦)というような説明が人びとの琴線に触れる理由について考えよ。(最近、梅原猛、道徳教育の本を読んでいるのはそういう事情がある)
  • 「ルール(法)」は外面、「マナー(倫理)」は内面であり、「ルール」があっても「マナー」がなければ意味がない、制度があっても魂が宿っていなければ意味がないという言い回しについて。外在的な規則の内面化、他律と自律という話について。そういうカント的な発想が道徳を語る人びとは好きなのだ。
  • ヒサタケ流の倫理学は、そういう一般人の倫理理解に鈍感というか、意図的に無視しているように思われる。「一般人や専門家の生殖医療に対するおろかな批判」の論点整理という形で、各論的には向き合っているが、もう少し「一般人がどのように倫理を理解しているか」について掘り下げて考える必要がある。これをやらないと、「倫理学は、外国の議論の輸入ばかりで、現実の日本人の倫理的関心からはイレレバントなことをやっている」と言われかねない。どうしてもすれ違ってしまうのだ。
  • 医者・医学研究者の一部は、世界には「患者のニーズに答えられる医師」と「患者のニーズ」しか存在せず、当事者でない人びと(倫理学者を含む)はだまっていろ、と考えている人が少なからずいるようだ(実証研究が待たれる)。他人に危害を加えていないのだから、他の人が患者の自由を奪うことはできないということだ。その一方で、「ステークホルダーの全員(というのは、結局社会全体ということだろう)が意見を述べてコンセンサスを形成する必要がある」と考えている人びともいる。他人に危害を加えていないのかどうかという正にその点に関して議論をしなければならず、また、税金も投入されているのだから口を挟めないはずがないということだろうか。もっと突っ込んで考える必要あり。
  • 「価値観は多様である」という常識についてよく考えよ。これが多様な生き方の尊重だけではなく、相対主義、当事者主義の根拠になりうること。本当に価値観は多様か。どのレベルでそうなのか。嗜好のレベル、マナーのレベル、倫理規範のレベル(これは複数あるか)でそうなのか。
  • 大の大人に向かって、「あなたたちに倫理教育が必要だ」と言うのは、当然相手を怒らせる原因になる。「研究倫理」の確立が必要だというのは、暗に研究者は非倫理的だと批判していると思われる可能性があるので注意せよ。法に触れているわけでもなく、真面目に社会貢献している人びとに対して、「あなたがたはもっとよく振舞わなければならない」と言うと、おまえら(倫理学者)は何様だということになる。
  • 倫理学者の一つの役割は、論争に加わることよりも、論争状況を俯瞰して、すれ違いを指摘することなのだろう。ところがそれが、高みの見物をしている、神の視点を取っているとして嫌われる原因となるのだ。アームチェアから立ち上がるとはどういうことか。