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昨日の続き

せめて第一部は読んでしまいたい、、、

功利主義と社会改革の諸思想 (中央大学経済研究所研究叢書)

功利主義と社会改革の諸思想 (中央大学経済研究所研究叢書)

第5章「J.S.ミルとL.ワルラスのレジーム構想」

本章では市場(または慣習)と国家と所有、それもとくに土地所有の構造に重点を置いてミルとワルラスのレジームを比較する。(228)

「レジーム」regimeって、英字新聞では見るが(某独裁政権の悪のレジームとか)、倫理学の分野ではなんだかまだ見慣れない言葉だよな。「政体」「制度」とかいう意味か。日本語にならないのかな。

ミルとワルラスに共通する思想とは、まず競争参加のスタートラインが平等になるところまでは共同体すなわち国家が土地を配分する(ミルの場合には相続の規制もこれに含まれる)。その後の競争において現れる結果は、純粋に労働や制欲を根拠にした排他的権利が個人に認められる。社会主義的とも見なされる条件の平等化によって彼らは私有財産制を擁護し、逆に、自由主義者私有財産制擁護の根拠とする応報分配の原理を条件に、社会主義を擁護するのである。すなわち私有財産制と社会主義は、互いに相手側の原理を導入することでその弊害が是正され、本来の原理が回復されれば、「社会主義者の主張とは反対に」とか、「社会主義の原理に立っても望ましい」とミルが言うように、現在の対立は最終的に一つのレジームに総合されるのである。(235-6)

なるほど、自由主義社会主義の総合だそうだ。第三の道? 注に先行研究が少し紹介されているが、素人からすると、本章の議論がどれだけ研究として価値があるのかがわかりにくい(思想史の研究に常につきまとう問題だ)。また、「社会改革」「功利主義」というキーワードがほとんど抜け落ちている様子。

第6章「ヴェブレンと功利主義

本章の目的は、ヴェブレンが展開したイギリス経済思想史を取り上げ、彼の功利主義解釈を読み直すことにある。これまでにこのテーマは、主としてヴェブレンの古典派および新古典派経済学批判として論じられることが多かったが、本章ではあえてその論点を切り離してみたい。(265)

本章においては、、、、(1)ヴェブレンは、功利主義を露骨に拒否していただけではないということ、(2)「進化論的経済学」の二つの論点−−目的論的であってはならないこと、人間行為を主題にしなければならないこと−−はいかなる関係にあるか、という点を明らかにする。(266)

ヴェブレンが功利主義についてどのような肯定的評価をしていたかを見るとのこと。ベンタムの単純な快楽説による人間観により、「アダム・スミスの場合には、多義的でありえた「経済人」が、いっそう極端に無矛盾な「経済人」として徹底されていった」(276)。しかし、ミルやケアンズらの快楽説の修正によって「人間の精神的−能動的−目的論的連続性」が導入されることで、「経済学が人や階級の多様性、また伝統や習慣という制度的要因を考慮するようになった」(280)。この点に関してヴェブレンは功利主義に一定の評価を与えているそうだ。功利主義(全体)というよりは、快楽説の評価という気もするが。

この論文もそうだが、経済学では一般に先行研究は注で解説するようにしてるのかな。なんか「哲学」があるんだろうか。

第7章「J.A.ホブソンの厚生経済学とその政策的展開」

本章では、このホブソンの厚生経済学と近代産業組織の再建に関する政策論を検討の対象としたい。(294)

ホブソンは、人間の厚生を取り扱う厚生経済学という領域において、ピグー厚生経済学が採用した厚生へのアプローチ、つまり、経済的厚生だけに分析を限定するアプローチでは不十分であると考えたのではなかったか。そして、ホブソンはピグーの「量的功利主義」にもとづいた厚生経済学に対して、「質的功利主義」(...)を基礎とする厚生経済学の確立が急務と考えたのである。(296)

前章でも快楽の質か量かという話が話題になっていた。この議論が経済思想に及ぼした影響というのはおもしろいな。