え、こだまの世界?

A day in the life of...?

某オンライン報告、抜き書き(二つの文化)など

少し遅めに起床。ネコのエサやり、食器の片付け。

朝、シリアル、朝刊、シャワー。それから自転車で大学へ。

 

午前中は某オンライン終末期医療の研究会で報告。発表1時間、質疑1時間半という長丁場で疲れたが(法学系の慣習?)、やはり質疑は長い方がよいな。

 

お昼はベジラーメン。一服。

 

お昼すぎ、某氏来訪。某仕事を手伝ってくれる。某公募が、米国大統領選と並んで話題になっていると教えてくれる。

昼下がり、マンガを読んで一服。哲学書を読むのは辛いのに、マンガはなぜこれほど楽しいのか。

夕方、ようやく哲学書に向き合う。

 

私はヘーゲル研究者であるがヘーゲル主義者ではない。カント研究者だとたいていはカント主義者である。ウェーバーの場合も同様である。世界のあらゆる学問と思想の中で、過去の遺産を有機的に統合しながら、後戻りすることなく進歩してきた領域は、自然科学だけだと思う。したがって、現在の思想的営為は、自然科学の最先端と人文科学、社会科学の過去のよき成果との統合の上に成り立つので、過去の思想家のひとりに思想の大枠を委ねるわけにはいかない。

 

加藤尚武著作集11 著者解題 449頁

 

こっそりディスるのが上手だよな。見習おう。

 

哲学の出番がどこにあるかと言えば、専門の知識の壁の両側を見て回るというかたちで、たとえば経済学者から見た資源と鉱物学者から見た資源とがどう違うかということを調べておかなくてはならない。資源の量を無限として扱うか、有限として扱うかによって、所有権、自由市場、均衡などの意味が違ってくることを知った上で、解決を要する問題を明らかにしなくてはならない。人類の知的遺産のなかでたよりになるのは、自然科学だけ、しかし自然科学だけでは人間の課題が抜け落ちる。

純粋の自然科学にとっては、ヒトの滅亡など当たり前の事実である。(中略)

それでも頼りになるのは自然科学だけである。過去の社会科学、人文科学のゴミのなかから使えるものを拾い集めて、人間の課題を見えるようにするのが哲学の仕事である。

 

加藤尚武著作集11 著者解題 463-4頁

 

「なるほど、ゴミの山を拾う作業というのが哲学の仕事なんですね」

「じゃあいっそのこと、ゴミを拾うよりも新しい考えを作った方が早いんじゃないか」

「まあゴミの山にもときどきお宝があるということじゃないですか。ヘーゲルにも一片の真理がある、のような」

「一片の真理を見つけるのにヘーゲル全集読んでたら割に合わんよ」

「自然科学者は研究所で新しい真理を発見し、哲学者は人社系の人たちが出したゴミを漁る作業ですか…こんなことなら理系を目指すんだった」

「まあまあ。結局世界を救うのは我々かもしれんよ。あるいは、我々なしには自然科学者も世界を救えんのかもしれん」

 

自然科学と人文・社会科学との間の通訳を演じるだけの力量がないと、これからの哲学者はつとまらない。
この二つの文化の間の溝はますます深くなっていく。ということは、人間そのものに有効な意思決定の可能性が失われていくということである。自然科学の言葉と、人文・社会科学の言葉とが翻訳不能になるところに、脳死問題や環境問題の困難さがある。 こうした異なる分野の間の橋渡しをする、「わかりやすさを作り出す」ことが哲学の使命なのである。


加藤尚武著作集12『20世紀の思想ーーマルクスからデリダへ』エピローグ (著作集172頁)

「スノーの二つの文化の話のようですね」

「今は二つどころじゃなくて、もっとたくさんの文化がありそうだがな。理系のある一分野が別の理系の一分野を、文系の一分野が別の文系の一分野を理解できないという」

「それをわかりやすく繋げるのが哲学者ですか。ある種のコミュニケーターですね」

「ついでに言えば、加藤先生は哲学史は意味がないと言っていたが、この本はわかりやすく20世紀の哲学の流れを描いて、これだけ読んでいれば十分ということにしたかったようだな」

「昔、ぱらぱら読んだ記憶がありますが、たしかにそのようですね」

 

大学に入ると、文系と理系では教育の内容が全く違う。文系では、安上がりの講義が中心の教育となり、外国語以外には学習の効果を客観的に評価できない。(中略)

人間の能力は、本来、文系的と理系的的にはっきりと二分されているわけではないのに、文系は安上がりの教育を、理系は実用になる教育という教育政策が人間の能力を水と油のように分ける結果になっている。現在の大学の文化系教育は学生を脱科学化するという以外にはろくな仕事をしていない

 

加藤尚武著作集12『進歩の思想・成熟の思想ーー21世紀前夜の哲学とは』(著作集274頁)

「私もポスト科学化しています」

 

この巻に収録されている丸山真男批判の話もおもしろいな。ようやくいろいろ意味がわかってきたような。遅すぎるけど。

 

 

夜、帰宅して夕食。カレー。そのあと、クリーニングと東一条のスーパーに行く。蒸し暑い。

夜中、帰宅してシャワー。

 

メモ。「基本的な質問で恐縮ですがね、終末期医療に関して、倫理学者は何ができるんですか?  たとえば法律家は終末期医療に関わるガイドラインを作ったり、裁判で判決を出したりできます。また医療者は終末期医療を行ったり、また専門的なガイドラインを作ったりできます。では、倫理学者というのは、一体終末期医療に関して何ができるんでしょうか?」

このような問いに対して、倫理学者(道徳哲学者)は、一つには「終末期医療、たとえば安楽死や治療中止に関する賛成論と反対論の吟味をすることができます」と答えることができる。また一つには、「概念分析ができます、たとえば「終末期」という言葉についての」と答えることができる。