え、こだまの世界?

A day in the life of...?

某授業、某演習、哲學研究におもしろさは必要か、有事の意識・歴史の意識など

定時起床。食器片付け。今日も朝は涼しい。

ヘーゲル

ヘーゲルが「数」という規定を馬鹿にしていたことは確かである。幾何学も好きではなかった。「どうして補助線を引くと証明できるのか、前もってわからないのはけしからん」という趣旨のことを書いている。しかし、それ以上に、純粋数学ユークリッド幾何学体系が純粋なままに自立していることを、ヘーゲルは拒みたかったのではないだろうか。

加藤尚武ヘーゲル入門」著作集4 312頁

補助線については私も同じことを思った記憶があるが、今はいろいろな学問に想像力が必要だと思うことにしている。

 

ちょっとだけ二度寝してシリアル、朝刊。トヨタ他自動車会社の不正発覚。

豊田会長「(どうしたら不正を撲滅できるか?) 撲滅はね、ぼく無理だと思います。故意で間違いをやろうという人はゼロにしなければいけないが、問題が起こったら事実を確認し、しっかり直すことを繰り返すことが必要なのではないかと思う」(朝日新聞本日朝刊7面)。

ここからわかるのは、今回の不正は故意ではなく過失であると認識しているということか。いずれにせよ、私も研究不正の撲滅について訊かれたら、「撲滅はね、ぼく無理だと思います」と答えるようにしよう。

 

朝、身支度して洗濯物を干してから自転車で大学へ。快晴。しばらく某予習。

それから某講義。某加藤先生の「ヘーゲル入門」。難しい。これが某出版社の新書か何かにならなかったのは、やはり理由があるんだろうか。

お昼、某研究室でベジラーメン。論文はおもしろくなくてもよい(素気なくてよい)というのも、現代哲学研究のドグマの一つではないか。

 

哲學研究におもしろさは必要か

「論文なんて面白くなくていいんですよっ。だいたい面白さなんて主観的でしょう。尺度ありますか、面白さの? そんなの査読でも問題にならないでしょう」

「まさにそこなんじゃないの、現代の問題は。レイ・モンクも次のように文句を言ってるよ」

現在の仕方で学生を教育することの問題の一つは、論証が妥当か否かに関心を持つようにと我々は学生に奨励するが、論証がおもしろい(interesting)か否かという問いを検討するようには、あまり奨励しないということだ。その結果がどうなるか、学術誌を見ればわかる。学会誌の査読のために私のところに論文が送られてくるとき、大抵の場合、編集者が知りたいことは「この論文は筆者が先行研究をしっかり調べているか」や「この議論は、この分野における新奇な貢献であるか」や「この議論は健全であるか」である。編集者はその論文が大変つまらないものかどうかについては尋ねない。

Ray Monk, in Baggini, Julian, and Jeremy Stangroom, New British Philosophy: The Interviews (London: Routledge, 2002), p. 16

「じゃあどうやったら面白くできるんですか。ゴシップ書いても仕方ないでしょう」

「そこらへんは映画とか小説とかから学ばないといけないと思うんだよね。同じ素材でも構成を考えて並び変えるだけで面白くなる場合もあるし。具体例とか思考実験とかもそうだし。ヒュームだって口語的に書いてがんばってたわけでしょう。君もがんばって「一度読み始めたら朝まで寝られなかった」とか「面白すぎて散歩の時間を忘れてしまった」と言わしめるような論文を書いてみたまえ」

 

昼下がり、少しメールの返事。それから某第二演習。某パトナミストによるパトナム研究。

 

夕方、しばらくメールの返事。メールは油断するとすぐに溜まるので気を付けないといけない。

 

有事の意識・歴史の意識

ちょっと某加藤先生の文章から抜き書きとメモ。

しかしいま、世界のなかの日本を認識するうえで、指導者と国民のあいだにおおきなズレはないようだ。どちらも、ほどほどに楽観し、「大きな危機の到来はどうせないだろう」とタカをくくっている。大丈夫なのだろうか。世界は暗転する可能性を秘めている。日本だけが指導者も国民もヘンに明るい、という奇妙な事態になりそうな気がする。

いままでに「災害王国」と呼ばれたこともあった、「資源小国」とはいまでも言われる。石油ショックだとか、公害だとか、円高だとか、さまざまな危機は、それなりに乗り越えてきた。「もっと大きな危機がくるぞ」と叫ぶ狼少年にたいしては、「なんとかなりますよ」と答える習慣ができている。三年以内とか、五年以内とかそれなりに解決がつくような、小規模の危機にたいしては、混乱なしに対処するだけの弾力性をもっているかもしれない。

一〇〇年単位で先手を打つというような対処になると、日本は薄着しすぎているから、身震いせざるをえない。エネルギー資源の枯渇とか、環境破壊とか、近隣諸国での地域紛争とか、南北対立とか、日本人の対外意識の甘さと対外交渉力の弱さがすぐにでも露呈しそうな可能性はいくらでもある。誰も一〇〇年先をめざした政策は考えていないようだ。現代人は先のことを考える力が急速に衰えてしまったのだ。(続)

そうですね。予防の倫理学という場合も、どのぐらい先のことを予測して予防に努めるのか、が問題になりますね。危機意識は私自身もユニ〇ロのエア〇ズムぐらい薄着なので、ダメだなと思います。

私の専門とする哲学の領域で言うと、世界的に見て歴史哲学が絶滅したと言ってよい。哲学は人類の未来を語ることを止めて、「歴史の終わり」を宣言してしまった。すなわち、フランシス・フクヤマが「歴史という運動は資本主義化が完成すれば終わる」というイメージを作り出したが、ここには(1)資本主義が社会主義に勝利した、(2)資本主義を超える社会形態は存在しない、という未来イメージの欠乏症が示されているだけだと思う。現代が歴史の欠如としてしか語られないのは、進歩という歴史の尺度までもが、社会主義の崩壊とともにバブルとなってはじけてしまったからである。

ガリレオにならって「それでも歴史は流れる」と、私は言いたくなる。せめて一〇〇年か、二〇〇年先は世界史の見通しをもたないと、産業政策、教育と科学研究の政策、都市計画など、あらゆる計画が行きづまってしまう。私は、マルクスポパーの先例にならって、いまこそ『歴史哲学の貧困』を書くべきだと思う。自然の歴史という十九世紀に誕生した歴史の新しいありかたを含めて、人類は世界の未来について、何を語ることができるのか。誰もそのことを語らなくなったいま、歴史の沈黙が私には恐ろしい。

加藤尚武倫理学で歴史を読む』あとがき、加藤尚武著作集6 295-6頁

この文章が書かれたのは共産主義圏崩壊後の1996年で、このあといろいろな「有事」が起きた(特に日本では2011年の東日本大震災)。社会の変化は激しく、対策は後手後手で、しかも深刻になってからなのであまり有効でない。誰も先手を打った処方箋を作成することはできていないようだ。歴史は苦手科目だが、私ももう少し長期的なスパンで物事を考えないといけなさそうだ。

京大も2050年以降のことを考える試みを始めたそうだ。

 

下記、先日の某日本哲学会の二次会でドイツ哲学研究者のみなさまに教えてもらって古本で購入した本。ようやく読み始める。これを読むとフィヒテも30歳頃まで苦労したことがわかる。1791年にケーニヒスベルクを訪れてカントに会ったおかげで人生が好転したようだ。カントに借金をお願いしたら断られたが、カントは親切にもフィヒテの論文を出版社に斡旋し、その本がカントの著作と勘違いされたために好評を得て、その結果フィヒテの名声が確立したそうだ。

 

 

 

夜、帰宅。夕食。『映像の世紀』の安保60年〜浅間山荘事件の回を見る。60年安保の映像が見られたよかったが、掘り下げた話はなかったように思う。

www.nhk.jp

 

夜中、少しイエナの本を読んでから、某翻訳チェックとスイッチ。シャワーを浴びたら寝るべし。

 

 

先日、研究室用にデスクマットを買ったら結構快適だったので、自宅の勉強机用にも購入。ちょっと大き目のにしてみた。