え、こだまの世界?

A day in the life of...?

法学の落とし穴、哲学の危険

J.S.ミルと現代 (1980年) (岩波新書)

J.S.ミルと現代 (1980年) (岩波新書)

・・・経済学者たちは、かの法律家たちがおちいるのと同じ危険、すなわち「現存制度に自己の価値基準を求めるという習慣と、事件が起るとそれが現行法でどう処理されるかということ以外に何の疑問もさしはさまないという習慣とを身につけているために、あらゆる改革に対する不倶戴天の敵となる」という危険におちいることになるのだ。(62ページ、マーティノーの『経済学解説』のミルによる書評から)

現行法をやっている法学者に関しては、本当にこれを感じる。しかるに哲学はどうか。

哲学入門 (角川文庫―名著コレクション)

哲学入門 (角川文庫―名著コレクション)

哲学と無縁なひとは、常識、あるいは年齢または国籍による習慣的信念、あるいは慎重な理性の協力または同意なしに自分の心に生い育ってきた確信、等に由来する偏見にとらわれて、生涯を送る。そのようなひとにとっては、世界は明確で有限で明白なものとなってしまいやすい。、、、ところが反対に、われわれが哲学的思索をはじめるや否や、、、われわれはごく日常的な事物でも、きわめて不完全な答えしか与えられないような諸問題に導いてゆくものであることを知るのである。哲学は、それが提出する疑問に対して真の答えがなんであるかを確実性をもって教えることはできないが、われわれの思考を拡大し、習慣の専制から思考を解放する多くの可能性を示唆することはできる。(179)

よく言った。ラッセル先生には今後も、死んだ体にムチ打って哲学のセールスマンとして活躍してもらわないと。

が、大法官もやったベーコン先生に言わせると、どちらも一長一短ということになる。

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)

これまで法律について著述したひとたちはみな、哲学者として、あるいは法律家として著述したのであって、だれも政治家として著述したものはないということである。哲学者たちはといえば、かれらは架空の国家のために架空の法律をつくるので、かれらの議論は、あまりに高すぎてわずかしか光を送ってこない星に似ている。法律家たちはといえば、かれらはその住んでいる国家に準拠して、何が法律としてうけいれられているかについて書き、どういうものが法律であるべきかについては書かない。というのは、立法家の知恵と法律家の知恵とは別のものだからである。(351-2)

「現在そうあるもの」に囚われすぎず、かといって雲の上の理念のみを語るのではなく、現実的な立法、現実的な倫理を考えていかなければならない。

(追記。2007年6月23日あたりの松下圭一先生の本の引用も参照せよ)