え、こだまの世界?

A day in the life of...?

某総長の本

「課題先進国」日本―キャッチアップからフロントランナーへ

「課題先進国」日本―キャッチアップからフロントランナーへ

タイトルの心は、「先進国は自らの課題を解決して世界のフロントランナーになった。日本は今後各国が直面するような課題にいち早く直面している(ヒートアイランド現象、エネルギー問題、廃棄物問題、住宅問題など)。それゆえ、日本が自らの課題を解決することにより、世界のフロントランナーに立てる。これまでの、途上国根性丸出しの、先進国に追いつけ追い越せというキャッチアップ型の発想を捨てて、フロントランナーとしての自覚を持たなければならない」というようなこと。

厳密に読むと、たぶん不正確な事実などもあるような気がするが、この本に関しては、そういう細かいことは気にせずに読むのが正しい読み方だろう。以下、おもしろかった箇所を引用。

出羽の守」は終わった

追いつけ追い越せの時代には、大学でも「出羽の守」と言われた。これは「ではの紙」の皮肉であって、「アメリカ『では』こうやっている」「イギリス『では』こう考えている」といって、外国を紹介するだけの論文=紙を書いた人々を指す。「フランスではこうだ」「ドイツではああだ」という「では」が水戸黄門の印籠のような神通力を発揮し、「では」で論文を書く。それが当時の日本だった。(43-44頁)

まだやってますが、何か?

じゃなくて。たしかに、本来、(外国の)研究動向を紹介するサーベイ論文というのは片手間でやるべき仕事だろうと思う。しかし、上のような言説があるせいかどうか知らないが、研究者の基礎能力が落ちていて、外国の動向をまともに紹介できない研究者が多いように見受けられる。とくに、脳死臓器移植関連に関しては、外国の文献が非常に偏った仕方で紹介されているので、それを正したいと思っている。

出始めた「モデルをつくる」人々

学者は新しい学術領域の創造に取り組まなければならない。すでにたくさんの学者がそうした取り組みを始めているが、学者全体を見ると、まだ大半の学者が何かいい論文はないかと海外をキョロキョロ眺め、海外の理論を翻訳・紹介したり、その理論をより深めるということで満足していて、新しい学術の領域を自分でつくっていこうという気概に欠けている。ましてや、複雑化し、細分化した知を統合するビジョンをつくろうとする学者は、残念ながらさらに少ない。
・・・結局、日本社会全体が、課題解決の手段を外国に探すのではなく、自ら創造していくのだという気概を持っていない。日本全体がまだ途上国意識なのだと思う。(52-3頁)

耳が痛い。学者も(とくに東大の先生は)ベンチャー精神を持たないといけない。ただ、みながみなベンチャー精神持っても大丈夫なのかな。やっぱり、堅実に今ある研究を積み上げる人、外国の研究動向をしっかり押える人、などなど分業が必要な気がするが。まあ、それはともかく、生なんとか学とか、なんとか生学とか、新しい学問分野をつくり出す研究者の方々を応援するか、応援しないまでも邪魔しないようにしないといけない。

Come mothers and fathers
Throughout the land
And don't criticize
What you can't understand
Your sons and your daughters
Are beyond your command
Your old road is
Rapidly agin'.
Please get out of the new one
If you can't lend your hand
For the times they are a-changin'

と、ボブディラン先生も言っています。

専門家の落とし穴

細分化された研究は、よく「たこつぼ型の研究」といわれて批判される。たしかに、たこつぼに入ったら周りが見えないように、研究者は視野が狭く、全体像が見えなくなりがちだ。
・・・
だから、専門家はダメだ、研究者はダメだという話になりがちだ。しかし、世の中の技術進歩を生み出すのは専門家たちであって、評論家ではない。細分化された中で生まれてきた研究を尊重せずに進歩はない。専門家は大切だ。
ただ、専門家も、視野を広くし、自らの限界を意識して語るべきである。日常は専門に埋没しているから、全体像を忘れがちだ。(142-3頁)

これもその通り。ベンタムにおけるリンネの影響なんて一見どうでも良い(また、本当にどうでもいいかもしれない)研究が、ベンタム研究、ひいてはイギリス思想研究の中でどういう意義を持つのか、またイギリス思想研究が一体この現代(日本)社会においてどういう意義を持つのか、といった全体像をときどきは考えつつ、専門性を深めていかなければならない。某総長は、専門知識の組織化、体系化を「知の構造化」と呼んでいる(わかりにくい表現だと思う)。

大学の役割

このような[細分化、断片化された]知の状況下で、大学の役割は二つの意味できわめて大きいと思う。第一は、全体像を理論的に考えるということである。大学にはこういうことの得意な人が揃っている。異分野のトップレベルの人たちを非常にたくさん抱えているのが総合大学の特徴でもある。・・・
第二はシンクタンクとしての役割である。例えば、日本の政治とか役人のシステムは、典型的にキャッチアップ型になっていた。実際にキャッチアップをしてきたのだからそれは仕方のないことであったが、そのために日本の政治家や役人の周辺にはシンクタンクがなかった。外国のものを導入すればいいのだから、頭のいい人が外国のものを見てくればそれでよかったわけである。
ところが、今度は自分でつくっていくわけだからシンクタンクが周りに必要になってくる。・・・大学という巨大なシンクタンクがあるのだから、これを使わない手はない。(150-1頁)

某総長がこのあとに述べているように、総合大学が本当に総合大学として機能するようにならないといけない。そのためには、トップダウンの改革、あるいは草の根の運動が必要だ。どうすればいいのかな。

知の構造化の目的と方法

知を統合するためにネットワークは不可欠だが、そのネットワークをどのように管理し、うまく動かしていくか、ということが重要だ。そのためには基本的に、「知を構造化する」こと、「全体像を描いて共有すること」、それぞれの人たちが「自分はどういう役割を果たしているのかを認識できるようにすること」が必要だ。・・・さらにまた、このネットワークを動かすことを自らの使命とすると、そう決意した人の存在が不可欠なのだ。そういうネットワークの動かし方を、人間は「新たな知」としてつくっていかなければならないのではないかと思っている。(154-5頁)

要するに、マネージャーあるいは指揮者のような役割の人が必要なのだ。しかし、今の小講座制ではこれはうまく行かないのではないか。といって大講座制でも事情は大して変わらないだろう。組織を大幅に変える必要がある気がするが、これもどうしたらよいのか。某総長もこの点については「自律分散協調系」とか「構造化教育研究」とかスローガンを作っているが、まだまだこれからのようだ。まあ、オレとしては、今のところ、研究会などで草の根運動をするしかないかな…。