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日本の大学制度

日本の大学制度―歴史と展望―

日本の大学制度―歴史と展望―

先日いただいた本。おもしろかったので一気に読んだ*1。タイトルと副題にあるように、日本の大学制度の歴史と展望を知るには格好の本。とくに、国立大学の法人化の前後の話が勉強になる。とくに、文部省の大学審議会による、一般教育と専門教育の区分廃止や、大学院の重点化は、自分が学部や大学院にいた頃にその影響をもろに受けた話なので、歴史的視点を得るのに役立った。

一般教育と専門教育の区分が廃止されたのに伴って、多くの国立大学ではそれまで一般教育を担当していた教養部が改組され、そこに所属していた教員は既存の各学部に分属したり、あるいは京都大学総合人間学部の例にみられるように、東京大学教養学部型の新しい学部を創設して四年間の教育課程を編成し、あわせて全学の教養教育を受け持つという体制をつくったりした。だが、、こうした改革はたしかに教員組織の体制を大きく変えたものの、それによって学部教育のカリキュラムが格段に改善されたわけではなかった。むしろ多くの大学で教養教育が軽視されるといった傾向が指摘されるようになった。(178-179頁)

たしかに崩壊してました。草原先生は、あとで見るように、学部教育における教養教育の充実(体系的カリキュラムの作成)を提言している。

大学院の拡充については、東京大学をはじめとする一部の主要な国立大学では、大学院の定員を増加するだけでなく、その際、教員の所属をそれまでの学部から大学院に移して大学院の専任教員とし、同時に学部教育も担当させるという措置がとられた。教員の所属を移したのは大学院教育の充実のためというよりは、そうすることによって文部省から配分される教育研究費が増える仕組みになっていたからであった。これがいわゆる大学院重点化の実態である。その結果大学院の規模は拡大したものの、それによって大学院の組織や運営体制が変ったわけでもなく、単に学生数が増加しただけではないかとの批判を浴びることになった。そしてこのことがのちにポスドク浪人の問題につながっていくことになる。(179)

なるほど。わたしが学部ではなく大学院研究科の肩書きを持っているのも、そういうことなのか。

最終章の第十章は草原先生の持論のようだ。気合が入っていて読ませる。第十章の内容にはそれほど新しい主張は含まれていないと思われるが、それまでの歴史の話を読み進めてからここに至ると、なぜ今あちらこちらでこういう主張がなされているのかをよりよく理解できる。

たしかに、近年の大学改革の流れの中で、各大学は教育サービスの改善向上に向けてさまざまな努力を傾けてきた。シラバスの作成や学生による授業評価の導入など、教育方法の改善という点では一応の成果をあげている。だが、肝腎の教育内容そのものを問い直すような動きには必ずしもむすびついていない。相変わらず個々の教員が一定の授業科目と時間数を抱え込み、その中で自分の専門領域の講義を続けている。そこでなにを教えるかはその教員の自由裁量に委ねられている。はじめに教員ありきであって、一定の目的にそった体系的なカリキュラムに従って授業科目を担当するという発想は、残念ながら日本の大学には見られない。学生の立場からみてどのような科目の組み合わせ方が最適かという配慮が欠けている。このような形での大学の学問はすでに社会的有用性を失いつつあるのではないか。(262-3)

そうなんだよなあ。まあ、看護学科なんかは、ちゃんとカリキュラムがあるんだけど。草原先生は、学部教育の目的を次のように述べている。

大学で学ぶということは、もはや体系化された学問知識を単に知識として身につけることではなくなっている。新しい問題に直面したときに適切に対処できるような応用力を身につけることが目的とならなければならない。大学は知識を学ぶところではなく、学び方を学ぶ、あるいは思考力を身につけるところでなければならない。しっかりした価値観やものの見方を身につけ、それに基づいて的確に判断し行動できる能力を磨く場でなければならない。(268)

哲学教育で言えば、哲学史を教えるだけでなく、クリシンも教えろということか。

伝統的な大学においては、学部という組織は、法学、経済、文学、理学、工学、医学、農学といった伝統的な学問領域ごとに構成されている。これは学部で専門家を養成することを目的としていた古い時代の発想にほかならない。このような考え方はもはや現代には通用しないだろう。これからの時代には、学部の教育目的は、将来どのような分野に進むにしろ、職業人として必要な基礎的な能力や思考能力、コミュニケーション能力、さらに現代社会の市民として要求される倫理観や価値観、あるいはそれに基づいた判断力を育てることでなければならないのである。(268-9)

大学にとってもっとも重要なことは、学部教育の目的・目標を明確にすることである。目的・目標が明確になれば、次の課題は、それに沿って学科構成を見直し、それぞれの教育プログラムの目標に沿って体系的なカリキュラムを編成することである。その過程で当然、授業科目についても見直しが行われるであろう。見直しにあたっては、教員優先ではなくカリキュラム優先の発想に立たなければならないことはいうまでもない。(270)

ビュッフェスタイルの学部教育はダメで、ちゃんとコースを作れということだ。しかし、草原先生が前提しているような「問題意識をもたない学生」にコースを用意すると、本人の食べたい料理じゃないかもしれないという恐れもあると思うのだが。やはり1-2年生の間はビュッフェスタイルにするということなのかな。

高度の専門教育は大学院で教えられなければならないが、その際には、大学院生は広い教養を持っていることが不可欠で、しかも専門が狭すぎて他の領域の研究者と話せないようになってはいけない、とされる。

学問の細分化はますます進展し、研究者はひとつの狭い専門分野には詳しいが、それ以外の分野についての知識は乏しい。専門分野が異なるとお互いに言語が通じないことすらある。他方、科学技術が進歩し、社会がますます複雑になっている中で、現実の社会の問題を一つの学問領域だけの知識で解決することはほとんど不可能になり、学際的なアプローチや異なった学問領域間の協力が不可欠となってきている。そのためには、専門に細分化された個々の科学的知識や研究成果だけでなく、専門分野以外のことについても知らなければならない。自分の専門分野が学問全体の中でどこにどのように位置づけられているのかを知らなければならない。幅広い基礎に支えられた専門知識と、より広く深い教養とを兼ね備えた指導的人物を養成することがますます重要になっているのである。(286)

某総長の言う「知の構造化」とか「自律分散協調系」というのと同じ発想だな。しかし、このような「万能人」の理想はちょっと普通の研究者には高すぎるように思うのと、あとはどうやったらこれが実現できるかという手段を考える必要がある。後者の点については、残念ながら草原先生はとくに提言をしていないようだ。

1991(平成3)年の「大学院の量的整備について」と題する大学審議会答申では、今後は大学などの研究職に対するニーズは増えないが、実務に携わる高度専門職業人に対するニーズは増大するとして、大学院倍増の方針を打ち出していた。そのねらいは実務者養成のための修士課程の拡充であった。ところが実際に増えたのは、旧来型の研究者養成のための大学院が圧倒的に多かったのである。(中略)
こうして大学院生の数は増えたものの、それは結果的には、せっかく博士の学位を取得しても就職できないポスドク、すなわち博士浪人が増えるだけという深刻な事態を生み出すことにもなった。今日、ポスドクの増加という問題ほど日本の大学院の問題状況を浮き彫りにするものはない。

どういう問題かというと、

第一の問題点は、大学院生が多くなりすぎて教員の指導が行き届かないことである。しかも学位を取得しても就職がむずかしい。この問題を解決するためには、大学院の規模、特に研究者養成を目的とした博士課程の規模を縮小する必要があるだろう。もともと拡充の必要がなかったにもかかわらず、大学院拡充という方針を集うよく解釈して、卒業後の進路の見通しもないまま既存の大学院の規模を拡大したところに問題があったのである。そのような計画を立てた大学側にも責任があるし、大学院重点化と称してそれを安易に認めた文部省も責任を免れない。

第二の問題点は、そもそも日本の大学院は社会で必要とされるような博士を育てていないということである。日本の大学生は狭い専門分野の勉強しかしていない。学部もそうだが、そこから修士課程、さらに博士課程へと進むにしたがって、ますます狭くなる。そして重箱の隅をつつくような研究テーマを選んで論文を書く。これではまるで指導教授の縮小コピーを育てているようなものである。そのような博士を企業がぜひ採用したいと思うだろうか。かといって彼らが大学の教員としての適格性を備えているともいいがたい。

(中略)

日本においては、社会が博士を必要としていないのではない。必要とされるような博士を育てていないだけである。この点にメスを入れない限り、大学における研究者養成機能の向上は期待できないし、ポスドクの問題も解決されないだろう。(288-9)

まあ、自分を振り返ってみると、もろにこれに当てはまっている気がするな。幸い、大学が良かったのと、運がよかったので助かったわけだ。今、大学院に進む学生って、どういう将来設計を持ってるんだろう。なんとなく大学教員になれると思っている学生が多いのかな*2。あるいは、なんとなく企業などに就職できると考えているのか。この点については文科省による実態調査とかあるんだろうか。とにかく大学院教育のあり方が深刻な問題であることはよくわかった。

それにしても、こういう大学論って、大学の先生もしっかり勉強・議論すべきだが、学生にもきちんと講義で教えて、「大学で何を学んだらいいのか」という問題意識を持ってもらった方がよさそうだ。

*1:逃避活動の一環。それにしても、本を読めるというのは、最近少し時間と気持ちに余裕ができた証拠だ。

*2:そういう人は、山田昌弘の『希望格差社会』を読んで甘い期待を打ち砕かれるべし。