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〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

「愛国」としての「民主主義」

日本が負けたのは、自由な言論を抑圧することなどで道徳が腐敗したために総力を出し切れなかったからだ(「総力戦」)。国民の総力を出すためには民主主義になる必要がある、という戦後すぐの論調。「一億総懺悔」「道義なくして勝利なし」「敗因は道義の退廃」(68-69頁)

「近代」への再評価

マルクス主義ファシズムも「(個人と国家が対立する)近代(市民社会)の超克」を謳っていた。丸山は戦前はマルクス主義的立場から近代批判をしていたが、戦後は「近代的思惟」を再評価した。(70-74頁)

国民主義」の思想

丸山「福沢に於ける秩序と人間」(74頁-)。
「福沢が我が国の伝統的な国民意識に於てなにより欠けていると見たのは自主的人格の精神であった」。
福沢の「一身独立して一国独立す」⇒「福沢は単に個人主義者でもなければ単に国家主義者でもなかった」「個人主義たることに於てまさに国家主義者だった」。
すなわち、個人がより重要か、国家がより重要かではなく、個人が自律して初めて独立国家(という言葉の意味が曖昧だが)になる、ということ。
丸山「国民主義理論の形成」(76頁-)。

「近代的な「国民(nation)」ないし「国民国家」は、言語や文化の共通性などではなく、国政に「主体的」に参加していく「国民意識」を基盤として成立する。丸山の課題は、このような「国民主義(Nationalism, Principle of nationality)」に支えられた「近代的国民国家の形成」を日本にもたらすことにあった。(77頁)

国政に主体的に参加していく国民意識がないと、近代的国民国家にならないというのは、ハードルが高いな。
江戸の封建体制において政治に関与できなかった農民や町人たちは、「政治的無関心と無責任の安易な世界」にとどまり、中でも商人は「一切の公共的義務意識をもたずひたすらに個人的営利を追求するいわば倫理的存在」であり、「私欲の満足のためには一切が許容されているという賎民根性に身を委ねた」(77頁)。
選挙権が与えられている現代も同じようなものなのはなぜか。形式的には政治参加が認められているが、実質的な政治参加からは疎外された状況。

丸山講演「明治国家の思想」(80頁)。
明治初期には「民権」と「国権」は不可分という認識があったが、明治中期から「上からの官僚的な国家主義」が強くなり、日清戦争以降は「近代的な個人主義と異った、政治的な個人主義、政治的なものから逃避する、或は国家的なものから逃避する個人主義」が現れていった。(80頁)
ベラーの言う表現的個人主義とか功利的個人主義とかそういうやつだな。
「私的な家」(=近代市民社会形成の妨げとなる郷土意識や家制度)(82頁)
近代の超克を謳った京都学派の『世界史的立場と日本』(84頁)

この『世界史的立場と日本』によれば、「近代ヨーロッパの最大の病根」は、「初めから完成されてゐるやうな人格とか民族とかを前提にして出発する」「個体主義的な思想」にある。近代市民社会が「個人」を重視するのと同様に、近代国家や近代民族主義も、個々の民族や国家を一個の「個体」とみなす。こうした思想から、個人の自由を重視する市民社会と、民族自決を原則とした国際連盟が生まれる。しかしそれは、市民社会においては資本家の勝利を、国際社会においてはアングロサクソン諸国の植民地支配を招くにすぎない。それゆえ、西洋的な「近代」に戦いを挑む日本は、こうした近代市民社会と近代国家を止揚する世界史的役割を担っており、国内においては個人をこえた統制経済を、国際的には近代国家をこえた大東亜共栄圏を建設すべきだというのだった。(84頁)

出発点がサンデルら共同体主義者の「負荷なき自我」批判と似ているな。
丸山は「戦争という危機のなかで、彼は論壇の流行に背をむけ、これ(近代的思惟)をあえて再評価したのである」(84頁)。つまり、個人主義は資本化支配と植民地支配につながるという京都学派の発想とは異なり、個人における自主独立、そしてそれを通じた国家における自主独立を唱える。