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〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

超国家主義」と「国民主義

前者が丸山が批判した全体主義、後者が丸山が支持する主体的な個人によるナショナリズムとデモクラシーの融合した国民国家

(陸羯南は)「ナショナリズムとデモクラシーの綜合を意図した。中略。長きにわたるウルトラ・ナショナリズムの支配を脱した現在こそ、正しい意味でのナショナリズム、正しい国民主義運動が民主主義革命と結合しなければならない。(88頁、丸山、「陸羯南論」)

これが明治維新のときに完遂できなかった課題だそうだ。

マルクス主義においては、「近代」や「市民社会」が批判されていた。中略、敗戦直後のマルクス主義者のあいだでは、「市民」はブルジョアの代名詞として、「世界市民」は国境をこえて利益を追求する多国籍企業の資本家たちを意味する言葉として、それぞれ使用されていた。中略、進歩系の知識人が「市民」という言葉を肯定的に使用してゆくのは、1960年の安保闘争前後からである。88-89頁

だそうだ。そうか、コスモポリタニズムというのはマルクス主義的には悪口なんだな。「市民=利己的(功利的)な商人」と読み替える必要がある。

「近代的人間類型」の創出

大塚久雄。「近代的人間類型」、「エートス(経済倫理)」、ウェーバーの影響、クリスチャン。
「結論からいえば、丸山が政治参加における自発性を重視したのにたいし、大塚は経済生産における自発性を重視した思想を形成したのである」(91頁)。真の自発性は放縦ではなく、「禁欲に結びつき、不断の陶冶によって獲られるべきものなのである」(92頁、大塚「最高度"自発性"の発揚)。ここでも利己的な商人(たとえば闇商人)は卑しむべきものとされる。
メモ。「人格の向上なくして、生産の向上なし!」(93頁)。「マックス・ヴェーバーという、アメリカやフランスではそれほど重視されていない社会学者が、戦後の日本ではマルクスに並ぶほど著名になったのも、大塚の影響力を無視しては語れない」(95頁)。そうだったのか。丸山にとっての福沢、大塚にとってのヴェーバー

「大衆」への嫌悪

丸山も大塚も基本的に、大衆は「アフリカの原住民」(97頁)のようなもの、という低い評価。封建制度批判、エゴイスティックな農民・闇商人批判は、後にエリート主義的とも見られた。「こうした「大衆蔑視」や「アジア蔑視」は、後年になって吉本隆明新左翼系の論者たちなどから批判された」(97頁)。

屈辱の記憶

丸山や大塚の言葉を、戦争体験を背景に考える必要がある。

いわば、丸山や大塚が「近代」という言葉で述べていたものは、西洋の近代そのものではなかった。それは、悲惨な戦争体験の反動として夢見られた理想の人間像を、西洋思想の言葉を借りて表現する試みであった。「個」の確立と社会的連帯を兼ねそなえ、権威にたいして自己の信念を守りぬく精神を、彼らは「主体性」と名づけた。そうした「主体性」を備えた人間像を、丸山は「近代的国民」とよび、大塚は「近代的人間類型」とよんだのである。100頁

なるほど。「主体性」は戦争体験の反省に基づく重い言葉として理解せよ。
丸山や大塚らにおいては、戦争体験をもとに、「ナショナリズムとデモクラシーの綜合」、すなわち「民主」と「愛国」を両立させる理論が提唱されたが、これ以降の思想においては、「民主」と「愛国」の両立が崩壊していく(103頁)んだそうだ。うまくまとめてあるなあ。