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〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

「主体性」と天皇

終戦後しばらく、「天皇制」という言葉は官僚の権威主義を表す言葉として用いられた。その対義語が「主体性」、および「連帯」と「団結」だった(128頁)。

当時の天皇論議で強調されたのは、天皇制は倫理感や責任意識、すなわち「主体性」の確立を阻害するということであった。
たとえば丸山真男は、「天皇制を長とする権威のヒエラルヒー」が、「自由なる主体」の形成を妨げ、「無責任の体系」を発生させると主張した。(129頁)

こういう背景があって、サルトルが戦後に流行するわけか。

ところが、「民主主義と天皇制は両立する」という論調が戦後の論壇にあふれかえった(130頁)。丸山の「超国家主義の論理と心理」も、天皇制を批判するものではあっても、天皇個人を批判するものではなかった(131頁)。とはいえ、天皇から独立したナショナリズムが構築できない限り、日本人の道徳的自立は完成しないと考えた(133頁)。

丸山や中野好夫たちが、天皇制を日本国民が未成熟である原因と考えたのに対し、田中耕太郎や和辻ら保守系知識人は、天皇制を廃止すれば「アナーキーと独裁」に陥ると主張した(133頁)。このような保守派の論調に対し、羽二五郎や加藤周一らは、「恥を知れ」と非難した(134頁)。

「武士道」と「天皇の解放」

当時、天皇制廃止論者はしばしば、(保守派は)「恥を知れ」「腹を切れ」という「武士道」的な言葉を用いて、近代的主体性を擁護していた(135頁)。
天皇制廃止論の一つの結論としてでてきたのは、「天皇天皇制からの解放」(by 中野重治)だった(136頁)。共産党内にも天皇の処遇をめぐって意見の違いがあり、妥協の結果、「天皇制廃止の方針は掲げるが、天皇家の存否と天皇個人の処遇は別問題とするという方針がとられた」(138頁)。
みんな「天皇制を憎んで天皇を憎まず」的発想だったわけだ。

天皇退位と憲法

丸山の師である南原繁も近代的な主体性が確立されていなかったことが敗戦の一因と考えていた。

南原のいう「一個独立の人間」も、「利己的享楽の功利主義」とは対極に置かれていた。彼は当時の講演で、「真の自由」と「個人自由主義」を区別し、民族を「自由の精神の創造の場」と形容している。(140頁)

南原はフィヒテを研究していたそうだから(139、140-1頁)、こういう物の言い方にはやはりドイツ哲学が関係しているのかな。

南原にとっては、天皇への忠誠は絶対的だったが、同時に天皇の戦争責任の追及も行っていた。天皇が、「人間の発見」をした西洋のルネサンスに当たる「人間宣言」をしたからには、天皇自身も近代的個人として戦争の責任を負う必要があった(141頁)。貴族院議員だった南原は、貴族院での演説で、皇室典範天皇の自発的退位の規定を入れることを主張した(143頁)。

なるほど、南原は天皇が責任をとって退位する道をうまく作ろうとしたわけか。

退位論の終息

南原の皇室典範改正意見は、反対多数で通過しなかった(144頁)。新憲法では、天皇がいかなる意味でも責任を負わないような制度になるよう、工夫された(145-6頁)。

1948年、天皇退位論がピークに達した。市民一般の世論では天皇制支持が高かったとはいえ、とくに文化人の間では、退位賛成が5割に近かった。(147-8頁)

しかし、(世論の支持を失うことを恐れた)衆参両議院、(退位によって天皇制廃止の機運がなくなることを恐れた)共産党、(共産主義の台頭を恐れた)占領軍などは退位論に反対であり、結局天皇の退位は行われなかった(148-9頁)。若き中曽根元首相も、サンフランシスコ講和条約発効を機に退位することを主張したが、吉田茂首相が退けた(149頁)。

1951年の天皇巡幸の際に起きた京大事件(150-1頁)。あら、こんなこともあったのか。

アメリカの国際戦略と、それに結びついた保守政権のもとで、天皇の戦争責任が不問に付されたことは、その試みを失敗に追いこんだ。それは結果として、戦後日本が独自のナショナル・アイデンティティを築くことを、大きく阻害したといえる。152頁

なるほど。「日本国民の無責任の象徴」(by 猪木正道)という理解が残っていくわけか。