昨晩は悪い夢を見て早めに起床。少しヘアの勉強。身支度、朝食、朝刊。
朝、娘をバス停まで送り、歩いて大学へ。午前中はハーバーマスの勉強など(下記ツイート)。キルケゴールのところは読み飛ばしていたが、先日のシンポの報告を聴いて真面目に読んだらそれなりにおもしろかった。納得はしないが。
お昼、中央購買部でパンなど。ついでに某航空券の立替払いも済ませる。
お昼すぎ、某予習。昼下がり、某演習。ヘアの二層理論。ヘアももう少しじっくり勉強したいな。
夕方、急いでメールの返事。
夜、タクシーで三条へ。某師匠とベジの店で夕食をとりながら議論。幸福(ポジティブ心理学)の話。勉強させていただく。
夜中、歩いて帰宅。娘とシャワー。もう寝るべし。
「私は私自身の人生の時間をどのように使うべきなのだろうか?」…今日では、つまり形而上学以後にあっては、哲学は、個人的な人生の生き方についても、集団としてのあり方についても、そうしたことを尋ねる問いに、しっかりした答えができるとは思わなくなっている。---ユルゲン・ハーバーマス
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月12日
『人間の将来とバイオエシックス』翻訳7頁。個人の善の構想に踏み込まないリベラルな社会だからか
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月12日
「ジョン・ロールズのような政治的リベラリズムこそは、この流れの最終到達点を示している。。。「公正な社会」は、「自分の人生の時間をどう使うか」はすべての人の好きに任せられている、とするのである。」同上9頁
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
ハバマスも正しい指摘をしているな
「デモクラシーによる憲法を持った国家で、マジョリティーといえども、自分たちの文化的な生活形式を--それが、当該の国の共通の政治文化と異なる所がある時には--いわゆる「主導的文化」としてマイノリティーに対して押し付けてはならないのである」10頁
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
「この例が示すように、今日でも実践哲学は、規範に関わる思考を何もかも放棄しているわけではない。しかし、大きくみて実践哲学は、正義の問題だけを扱うように自ら限定・節制しているのである。」10頁
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
「それゆえ今日では、正義と道徳に関する理論は独自の道を、いずれにせよ、古典的な意味での「正しい生活」についての教えという意味での「倫理(学)」とは別の道を行くのである。」11頁
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
「まさに、我々にとって最重要な問題に関してこそ、哲学はメタ次元へと上がり、…形式上の特性のみを調べるだけで、その内容自身については立場をとることができないのである」12頁
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
「だが、もっと悩ましいのは、哲学的な倫理学が、心理療法に席をゆずってしまったのはどうしてなのか、という問題である。心理療法は、心理的な障害を取り除く治療することで、人生をどう生きるかという古典的な課題をなんのためらいもなく引き受けてしまっているのである。」13
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
「なぜ哲学は、このように精神分析が自ら可能と思っていることに恐れをなして、避ける必要があるのだろうか? ここで必要なのは、失敗した生き方、あるいは失敗ではない生き方の臨床的な兆候に関する我々の直感的な理解を明らかにすることである。」14頁
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
そこでキルケゴールの「自分自身でありうること」ですよ、というのが二節で、内容はおもしろい。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
「これまではヨーロッパ近代の世俗的思考も、また宗教的信仰も共に、新生児の遺伝的素質、それとともに、その子供の将来の生活にとっての身体上の初期条件は、プログラム化したり、ほかのひとみとによる意図的操作をしたりすることのできないことを前提としていた。」28
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
「一人の人が、別の人に対して、彼の身体的素質に深く介入するような、不可逆的な決定をすることによって、自由で平等な人格同士の間ならば原理的に存在している責任の対等性が制限されてしまう。」30頁
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
こことここ以下の記述はいろいろ気になる。(1)そもそも親子関係はそのような対等な関係か、(2)生まれたあとの親の介入は修正可能という指摘は本当か。ここだけ読むと、生まれる前は身体的変更、生まれた後は精神的変更、という前提があるように思えるが、
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
親が遺伝的にデフの子どもを作るのと、生まれたあとに治療不可能な仕方で子どもをデフにするのは、同じことをしているように思われるし、逆に遺伝的にある種の心理的傾向性や知力を高めるのは、教育によって同じことをするのとそれほど変わらないように思われる
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
「生物発生学に関する研究は、投資家の経済利害及び個々の国の政府の成功欲と深く結びついてしまっているため、バイオ技術の発展がもたらすダイナミズムによって、公共の議論の場における規範的な問題についての息の長い解明のプロセスが踏みにじられかかっている」36頁
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日
しかし、遺伝子編集をしても、「両親の染色体セットの融合にある程度の偶発性」(翻訳47頁)があることは当分のあいだは回避できないよな。ゲノムをすべてデザインでき、またそれによって身体や行動上の特徴が完全に決定するという強い想定があるように思われる。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2018年11月13日