え、こだまの世界?

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遺伝的多様性と多様性の尊重

ちょっと気になるのでメモ。「開いてみよう! ゲノム医療の世界」(2017)という冊子は、ゲノム編集もカバーしているとてもよいものだと思うが、先日の講義のときから、あとがきの最後の部分が気になっている。

(遺伝的な)多様性を理解することは、みんなそれぞれ違い、ひとりひとりがかけがえのない存在だと認識することにつながると思います。

多様な遺伝子の成り立ちをもった人が生まれ、さまざまな環境で育ち、たくさんの考えや思いを取り交わし助け合うことで、皆さんの人生がより豊かになっていくのだと思います。

この主張の背景には、日本人のゲノムといっても、配列の個人差は非常に大きいという知見があるわけだが、その知見からどういう倫理的含意が導けるかについては気をつけないといけない。

 

前提:ゲノムの個人差は非常に大きい(多様である)。

結論:ひとりひとりはかけがえのない存在である。

 

「かけがえのない」というのは単に「代替できない」という記述的な意味か、あるいは「代替できないがゆえに貴重である」という評価的な意味かによって前提から結論が導けるかどうかがが変わるだろう。前者であれば、「ゲノムは人によってそれぞれであるから、全く同一のゲノムを持った個体は二つとない」という、基本的にはトートロジーを述べていることになる。

後者であれば、なぜ「全く同じゲノムを持った二つの個体は存在しない」ことから、「一つ一つの個体は貴重である」という結論を導けるのか議論が必要だろう。結局のところ、同じことはおそらく人以外の生物、哺乳類や魚類や植物にも言えるはずだが、我々はそれらを食べているのだから、それらの動植物のゲノムがそれぞれの個体において多様であることは、大して重要ではないのだろう。多様性が評価されるのは、ヒトゲノムの枠内における多様性であり、それを超える多様性、つまり人ではなくなるほどの違いは、尊重の対象ではないことになる。

別の可能性を考えてみる。人間においてのみ多様性の尊重が言われるのは、ゲノムの多様性が人間においてのみ顕著で、他の動植物においてはそうではないからだと仮定してみる。しかしその場合、「ゲノムの多様性のない集団の個体はかけがえのない存在とはいえない」と考えるべきだろうか? そうすると人間の双子はどうなるだろうか。あるいはヒトクローン個体を作った場合はどうか? 彼らは遺伝的に同一だという理由から、かけがえがないことはない、ということになるだろうか。これではあまりに遺伝子決定論的な主張になってしまうだろう。個性は、ゲノムの違いによっても生じるが、その後の生育環境によっても発展する。

双子やヒトクローン個体でも、ゲノムは微妙に違うという主張もなされるかもしれない。しかし、本質的な問題はこうだ。思考実験として、ゲノムが全く同一の個人が二人(あるいはそれ以上でもよいが)いるとした場合に、彼らは「かけがえがない」とは言えないだろうか? あるいは、ゲノムが全く同一だとしても、彼らはかけがえのない個人なのだろうか? ゲノムが同一だからといって人格も同一だとは言えないと考えるなら、我々はその二人をかけがえのない二人の個人だと言うだろう。だとすれば、ゲノムが多様かそうでないかというのは、個人のかけがえのなさとは関係のないことになる*1

ゲノムの多様性も、生育環境の多様性も、いずれも個人の多様性に貢献している。重要なのは、ゲノムに由来するにせよ、育ちに由来するにせよ、個人の生き方の多様性を尊重することであり、その規範自体は、ゲノムの多様性からは導くことはできない。それは、生育環境の多様性からひとりひとりのかけがえのなさを導くことができないのと同様である。

 

*1:追記:多様性というのは集団の属性だと思われるが、集団の属性によって個体のかけがえのなさが生じるとするのは不思議である。仮に自分が一切変わらず、しかし自分の属する集団が多様性を失った場合、自分はかけがえがないとは言えなくなるということだろうか。