え、こだまの世界?

A day in the life of...

urgency論文続き

The Difficulty of Tolerance: Essays in Political Philosophy

The Difficulty of Tolerance: Essays in Political Philosophy

para 14. 人々を行為へと動機付けるさまざまな関心事(concerns)や、そうした関心事に対してある人が持つinterestやそれに基づく活動は、一定の普通の生き方の範囲内で一つの図式(schematic picture of a range of variation of normal lives)を構成するだろう。そのような構造の中で、一部の関心事は周縁的であり、別のinterestsはほとんどみなが関心を持つ中心的なものでありうる。(といっても、ある事柄が中心的interestsを促進するからといって、それが直ちに緊急の事柄であることにはならない。)

#どんな生き方をするにしろ、普通の生活を送るかぎり、誰でも持つ関心やニーズと、そうでないものがあるという話。なお、interestsとconcerns, pursuitsなどはほとんど互換可能のようだ。

para 15. 普通の生き方の範囲については、特定の社会の枠内で考える仕方と、同程度の社会の発展段階における理想的な社会で考える仕方がありうる。人々の生き方に制約をかけている社会制度を批判する場合には、後者の、より一般的な社会像が前提されている。

para 16. 特定の社会においては、あるconcernsに関して非常に大きな相対的重要性が置かれているかもしれない。そういうときは、それが正しいかどうか、人々の間でコンセンサスが必要になる。

#何がurgentかということは、民主的に決めろというようなことだと思うが、抽象的で議論をフォローするのが面倒。

para 17. 次の例を考えれば上の話はわかる。ある社会では所得分配が厳格に平等である。しかし、真の平等のためには、医療費が高くかかる人々に特別な配慮が必要だと感じられたとする。その場合、どのくらいの配慮が必要か。健康や延命に対するconcernが他のconcernsよりも客観的な優先順位が下がる時点が来る。この時点が来れば、個人は平等の要求は満たされ、健康かそれ以外のもののいずれを優先するかは個人に任せられる。しかし、この時点はいつ来たといえるのか。一つの答えは、それぞれの社会がその時点を好きに決められるというものである。ただし、この答えは、社会においてなんらかのコンセンサスが達成されるということを前提している。urgencyという客観的な概念とコンセンサスの一般的関係については、論文の最後で述べる。

#コンセンサスは一見すると人々の選好の集合と考えられるから、最後の点は確かに問題だ。

para 18. ここまでの議論をまとめると、通常われわれが道徳判断で用いるwell-beingの基準は客観的なものである;その基準の内容について一般的に述べた;こうした客観的基準はresult-orientedである;また、個人のtasteや選好の多様性も考慮に入れている。残された問題は、なぜ利益と犠牲の個人間比較のために、主観的でなく客観的基準を使うべきかということ。一つの推論は、次のようなものである。上で見たように、主観的基準に基づく相互扶助の原理や分配的正義の原理だと、異様に高価な嗜好を持つ人や、どうでもいいようなconcernに異様なまでの重要性を見出す人によってhold upされる可能性がある。いいかえると、選好は、対立する要求を裁定する基礎としては、あまりに主意的(voluntary)である。ロールズもそう言っている。

#なるほど、voluntaryという言葉で思い浮かんだが、思想史的には、主意説と主知説の議論の変奏曲なんだよな。たぶん。

para 19. この批判の魅力は、同時選択(contemporaneous choice)の可能性に存するわけではない。というのは、個人の選好は、当人の意思に直接従うわけではないからである。「選好」という言葉は、主意主義的な響きがある。しかし、これは部分的には言葉による幻想である。われわれが選好とか欲求の対象にidentifyしないかぎり(unless we identify with it)、選好や欲求にはならない。といってもこれは選好の必要条件であって、十分条件ではない。あるものが道徳判断の基礎となるような選好(の対象)となるためには、それが強く感じられるとか、他の選好や信念と推論によって結び付けられなければならない。

#選好の概念分析。むずかしー。最初の一文はちんぷんかんぷん(→contemporaneous choiceについて勉強する必要あり)だが、誰かに教えてもらうことにして、先に進もう。

para 20. 選好基準は主意的だという批判は、高価な選好を意識的に形成するというような「操作」の可能性があるということかもしれない。しかし、これが批判の要点だとすると、選好の形成過程が意識的か、意識的でないかという点が問題になるだろう。しかし、そのような形成過程は、どのinterestを道徳的に満たすべきかという判断のさいには問題にならないように思われる。それは、われわれが、《ある人の欲求はすべて、当人がコントロールするものであり、それに対して責任を持つ》という(文字通りにとれば誤っている)考えをしているからかもしれない。スキャンロン自身の関心は、このような考えの背後にある考えを洞察することである。

#むずかしいのでイヤになってきた。

para 21. 上のような性格の(意識的に形成することも、無意識に形成することもできる)interestは、結局、持っても持たなくてもよかった種類のconcernだと言える。すなわち、ノーマルな生き方の範囲内では、それはperipheralな関心であって、centralなものではない。

#高価な嗜好のように、形成過程が問題になるような選好は、結局のところ、ノーマルな生き方を支える基本的なinterestではないからあえて満たす必要がないということか。なるほど、一歩下がって評価するわけだな。

para 22. しかし、このラインの議論にも問題がある。中心的なinterestでなくても、urgentである可能性があるためである。しかし、peripheralでurgentな要求というのはあるだろうか。スキャンロンは思いつかない。宗教に干渉されないという要求は、宗教的要求がない人もいるという意味で、peripheralでurgentといえるかもしれないが、やっぱり宗教あるいはそれに似たものは人生の周辺的ではなく中心的な位置を占めているのではないか。

#概念的にcentral=urgent, peripheral=not urgentではないということ。しかし、実質的には同じだろうと述べているようだ。宗教の例は簡単にやっつけてるのでよくわからんな。

para 23. 上のラインの議論は、選好のurgencyの客観的概念を前提しているので、この概念を支持する論拠にはならない。どちらかと言えば、両者は同一の見解の二つの部分である。この見解を採用するなら、主観的基準を社会制度や個人の要求の道徳的判断に全面的に用いることはできないだろう。ただし、部分的な採用、すなわち同一のurgencyを持つ二つの要求を判断するさいに、選好の強さを判断基準にすることはできるのではないか、という主張はありうる。

para 24. しかし、各人の選好は当人自身の問題であり、資源の配分のような公的決定には影響すべきではない、とわれわれは考えている。だからこそ、われわれはミルの快の質の話が変だと思うのだ。快の質の高低に関して、意見の一致があるかどうかは仮に置いておくとしても、ミルの議論は納得がいかない理由がある。たとえプッシュピンと詩歌の両方を経験した人たちすべてが詩歌に高い価値を見出しとしても、それは詩人とプッシュピンプレーヤーの権利の決定に影響を与えるべきではないとわれわれは考える。両方ともurgencyが一緒とみなされる限り、干渉されない権利も、社会資源の配分に関しても、同じ扱いを受けるべきである。

#あ、この段落が一番重要なんだな。スキャンロンは、人々が持つinterestsにノーマルな生き方をするうえでcentralなものとperipheralなものは客観的に分けられるとし、urgentなinterestをそうでないものより優先するという客観主義の立場を取る(centralityとurgencyの関係は今ひとつ謎)。つまり、本人の主観的選好に依存しない客観的利益が存在する。それに対して、ミルのような主観主義の立場だと、centralとperipheralの区別は(快の量ではなく)経験したみながそちらを選ぶというのが基準になる。実践的にはどっちでもいいんじゃないかという気もするが。ミルの質の区別は、ただちに権利とか配分の優先順位という話につながるのかな。いずれにせよ、この段落をよく理解すべし。

para 25. ハルサーニがロールズ批判などで、relative urgency基準ではなく選好強度基準を用いるべき例を挙げているが、その場合の例は、資源配分の公的な決定などではなく、友達のプレゼントに詩歌かプッシュピンのどちらを送るかという私的な決定の文脈である(ので、そのような場合はそれで問題ない)。

para 26. urgencyは二つの顔を持った概念である。

#この「二つ」というのが何を指しているのかすぐにわからん。ホントにスキャンロンの文章は難しいな。難しいというより悪文だ。こういうのを`philosopher's philosopher'とか言ってありがたがってはいかんと思う。いずれにせよ、ポイントはrelative urgencyは、expressed preferenceともinformed preferenceのいずれとも一致しない可能性があるということ。含意としては、パターナリズムの正当化可能性が出てくるな。

para 27. urgencyは契約論でも功利主義でも隠された形で登場する。ロールズでは、基本的な社会的財の優先順位についてのコンセンサスへの訴えという形で。功利主義では、効用が定義されない場合は、その解釈という形で、効用が選好の強度で定義される場合には、諸選好が持つ構造は、urgencyによって決まる構造と一致する。これら以外の仕方でurgencyが独立の概念として理解される場合は、なぜそれが道徳的に重要なのか、十分な検討が必要である。

para 28. その方向で考える場合には、二つのアプローチがある。自然主義的naturalistなものと、規約主義的conventionalistなものである。自然主義的なものは、相対的なurgencyはコンセンサスで決まるのではなく、どのinterestが相対的に重要かは客観的に決まっていると主張する立場である。規約主義的なものは、urgency概念は道徳的議論のための構築物constructだと主張するが、それは人々の選好を集計するのが難しいために二次的に作られたものと主張するのではなく、多様な選好を持つ人々にとって相互に受け入れ可能な最善の正当化基準である(the best available standard of justification that is mutually acceptable to people whose preferences diverge)、と主張する。

自然主義の発想は、納得はしないが理解できる。規約主義の方は、考え方がforeignでなんとなくしか理解できないんだよなあ。なんかだまされてるんじゃないだろうか。オレにとっては、相互に受け入れ可能な基準ではないけどなあ。

para 29. このどちらのアプローチがよいかは、一つには、主意的な批判をどう評価するかによって決まる。

#最後の話は疲れていて議論がフォローできないので、置いておこう。全体的には、価値の主観説か、客観説のどちらが優れているかという議論だ。一見すると規範倫理の議論に見えるけど、welfareについてのメタな話をしてるんだよな(まあ、別にそういう区別をする必要もないが)。それで、主観主義的な基準を分配的正義に用いるといろいろ問題がでるので、客観的基準の可能性を探ったという感じの論文なんだよな。客観的基準はtentativeに提示するだけで、確信を持って打ち立てるところまでは行っていないようだ。主観主義的基準を維持するには、スキャンロン的な批判をかわしつつ、客観的基準の弱点を突く必要がある。ミルの快の質の議論に対する批判についても、要検討だ。9章のvalue, desire, and quality of life (初出1993)も近いうちに読んでおこう。