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The Difficulty of Tolerance: Essays in Political Philosophy

The Difficulty of Tolerance: Essays in Political Philosophy

para 7. とはいえ、われわれが実際に使っている基準は、客観的な基準である。客観的な基準とは、当人のtastesやinterestsとは独立に、当人のwell-beingのレベルを評価するような基準のこと。これは、当人の現実の選好や(事実誤認などを排除した)理想的な選好とも対立する可能性のあるものである。ただし、客観的といっても、socially relativeであることを排除するものではなく、また各人の置かれた状況によって同一のgoodsや機会によって得られる各人のwell-beingも変わってくるという多様性の事実を排除するものではない。(→客観的なQOL基準)

para 8. もっとも、客観的基準においても、個人の主観的選好は重要な(とはいえ、二次的な)役割を持ちうる。個人が自分の選好やinterestsを形成することは、客観的に重要だと言える。しかし、客観的基準の要点はこうである。すなわち、〈分配制度などを設計するさいに一部のinterestsが他のinterestsに優先する〉という道徳的主張を考慮するさいに、問題となるのは、そうしたinterestsの重要性の客観的評価であり、単に(そうしたinterestに反映されている)主観的選好の強さではない、ということである。(→わかりにくいが、とにかく、primary concernは主観的選好の強度ではないということ)

para 9. 客観的基準がわれわれの道徳的直観にかなっていることは、以下の考察からわかる。まず分配的正義のケースを考えてみる。主観的基準の代表例として、(功利主義的な)最大平等満足原則(principle of maximum equal satisfaction)を考えてみよう。この場合、大半の社会資源は、(一定量の資源から得られるwell-beingに関して)最も効率の悪い人々に流れていってしまうだろう。セン(1973)はこの結論を支持している。たしかに、身体的障害を持っている場合など、特別に多くの資源を受け取るのが正しいケースもあるだろう。

para 10. しかし、同じ理屈で、特別なinterestsを持つ人や、高価なtastesを持つ人を特別扱いすることになってしまう。問題は、最大化や平等主義そのものが難点を抱えているというよりも、主観的なwell-being基準は重要な選好とそうでない選好の違いにinsensitiveだということである。

#どうでもいいが、relevanceとかsensitiveという言葉は、ある意味で専門用語なんだよな。専門用語と思って読まないと、その重要性をわからずに読み飛ばしてしまう。

para 11. 相互扶助の義務のケースを考えても同じ。他人を助ける義務は、その人の選好の強さに応じて発生するのではなく、その人のinterestのurgencyに応じて発生する。

#ここでようやくurgent interestという表現が出てくる。ニーズと同じような感じなのかな*1

para 12. ここで、複数の「強さの等しい」選好の異なる扱いを可能にする基準があると主張されるかもしれない。しかし、それはどのようなものか。ここで先に、選好のurgency(緊急性)とかimportanceとか言われるものの内容を明らかにしておこう。urgencyの関係とは、健康や遊びなどのいくつかの関心事が一定期間に実現される程度をそれぞれ尺度にとった場合に、それらの尺度における(関心事の実現の)増大または減少程度の関係のことである。(→原文もわかりにくいが、訳もあんまり正確ではない。まあとりあえず適当に理解して先に進もう)

para 13. 衝突する二つのinterestsを比較するとき、われわれが道徳判断においてやるのは、どちらのinterestsに強い感情を抱いているかについてではなく、それによる利益が望ましいと考える理由について尋ねることである。そうした利益の望ましさが、われわれになじみのあるカテゴリーによって説明されたなら、相対的なurgencyを決めることができる。

#このカテゴリーとかタイプというのがクセ者かもしれない。続きはまた明日。

*1:ニーズ概念の分析については、N. DanielsのJust Health Careを参照せよ。メモ。