え、こだまの世界?

A day in the life of...

さて、勉強しなければ

現状(そこから抜け出すには、いやでも見つめなければならない)

  • 来週日曜日発表(報告15分、質疑5分)
  • 4ヶ月前に出した、今読むと意味不明な報告要旨あり
  • スライドはタイトルページだけ存在(さっき作った)
  • 6月にデータベースで文献検索したが、そのときに必要な文献をすべて揃えたかどうか不明

……。さて、がんばるぞ。

とりあえず、リハビリに読んでみる

医療と法制 (講座 21世紀へ向けての医学と医療)

医療と法制 (講座 21世紀へ向けての医学と医療)

第三章、「脳死と人権」(本間三郎、生理学)。

脳は、身体的機能・精神的機能を合わせ持っている・・・脳は、われわれの意識、自我の意識、智慧、記憶、情動等々の精神的機能と、呼吸や血圧の調節、体温の保持、食物の消化吸収を行う自律性機能をも支配している。脳の機能が失われると、身体的機能も次々と失われていく。身体的機能というものは、脳からの支配に全く依存せねばならない。35-6頁

かっこいいな。なんだか古いSF小説を読んでいるかのような書きぶりだ(翻訳調?)。たしかに改めて考えると、脳の機能というのは不思議だな。この中で思考が行われていると同時に、身体の統合機能も担っている。

生体の組織あるいは器官のなかで脳の虚血耐性[酸素欠乏に耐えること]が最も低いものであって、脳の皮質は3分、脳幹が7分、それに対し心臓の筋肉が90分、腎臓が1,150分であるといわれている。
脳が虚血状態になり、7分以上たつと、すべての脳が不可逆的な死に至る。38頁

なるほど。窒息などで脳が虚血状態になった場合、3分以内に蘇生すれば回復し、3分から7分の間に蘇生をすると植物状態になり、それ以降だと全脳死状態になるわけか。

生物学研究が進んで、その内容が機械的に処理され、理解されることが多くなってきたなかで、この問題をどのように考えていくか。たとえば、心臓の拍動とか呼吸運動とか、あるいはフィルターによる血液の透析など、いずれものが機械的に処理され、人工的にその働きを代用できるものである。われわれの死とは、これ以外の、代用できないもの、機械論では説明されえないものの機能の消失であると考えるべきであろう。39頁

うまく書いているなあ。それではその「かけがえのないもの」とは何か。

人間としての個体死に関連しては、生物学で理解されるものと違って、個体、すなわち人とは何であるかの問いにまず突き当たるであろうことは前述した。その何かは精神的機能であると考えるので、ここでは唄教授の著述にある「人格」ということばをこれに当てはめて考えたい。この人格の死が、従来の心臓死よりも早く起きたか、あるいは心臓死とほとんど同時に人格がなくなったか。39頁

哲学的な言葉で言えば、精神的機能が人間のsine qua nonであり、これが失われることが人格の死ということだ。他のものは原理的にすべて代用できるが、これがなくなると人格の同一性が失われる。SF的には、そのうちこの「精神的機能」なるものもコンピュータで代用できるものとなり、そうなると人格は継続的に存在するのかもしれないが・・・。

一般の人びとのみならず、医学界の人びとでさえも、脳死状態でその人が本当に亡くなったと考えない場合が多い。すべての臓器が機能しなくなり、細胞が徐々に死に、それがたとえ腐敗しても、なお愛する人が死んだと納得できない人も多い。ましてや、心臓の状態をモニターして、画面に心臓の電気活動が見られているとき、遺族に向かって「脳死ゆえに亡くなられた」と宣言するには、医師にとって、よほどの勇気を必要とするものであろうことは、わが国の偽らざる社会環境である。・・・
われわれの身体は無数とも思われるほどの多くの細胞で構成されているが、すべての細胞が不活性化する前に、どの段階で個体の死を考えるか、これは上述してきたことであるが、そのためには人間として、生きることとは何かを、もう一度医学的に問い直してみる必要がある。41-2頁

クリアな文章だなあ。私情を挟まず中立的に見えるのがよい。見習おう。

先般、20年間も意識不明のままの主婦が亡くなられたという報道がなされた。その報道のなかで、その主治医のことばが強い印象として残っている。主治医がいうには、「患者さんはどうも意識があるらしい、それがわずかの表情の変化として見られた」という。もし、この患者さんの障害が、脳のなかの運動領、運動をつかさどる部分だけに限られていたとすれば、脳の別の場所に意識があったかも知れないが、ただそのことを運動によって表現できない。もしそうだとすれば、患者さんはどんなにか、もどかしいものであったであろうかと想像される。それらのことを見抜いて、20年間にわたりその回復に努力された主治医に、大変敬意を払わざるをえない。44頁

たしかに、本当に意識があったとして、これで治療中止とか臓器摘出とかされたらかなわんな(身体的苦痛は感じるんだろうか)。死刑における誤判に通じる問題。
ところで、似たようなことがコンピュータでも起きる。本当にハングアップしているのか、あるいは処理に時間がかかっているので、あとしばらく待てば正常になるのか。いずれの場合にも、判定の技術が進歩すれば判断はより正確になるだろう。

脳死を人格の消失といまだに見ていない人びと、臓器移植を肯定していない人びとのために、どのような医学的な説明がなされたらよいかについて考えてみたい。46頁

あれ、ここからの議論はスロッピーだな。

われわれは、身体の隅々から外部環境としての情報が脳に向かって送られており、また、内臓臓器からも内部環境としての情報が脳に入る。それらの情報が処理されたうえで、脳にそれぞれの特性があらわれ、その人の人格なり個性が形成される。このように考えると、人格をつくるに必要な情報を送っている内臓の臓器そのものにも、その人の個性が少しはあるということである。46頁

あら、某師匠が指摘していたように、人格と個性がごっちゃになりはじめている。

歴史的にみて心臓のような脳以外の臓器にも、幾分かの個性があると考えられようか。個性があるとすると、心臓を機械論的にすべてを理解し、人工的に代用できるとは考えられなくなる。これからの人工心臓は、それぞれの人のその個性を具備したものでなければならない。現在でも、ある人は心臓に自分の個性があるとしており、またある人は、心臓にはそういった個性を蓄える余裕はなく、実際に蓄えていないといっている。46頁

人格はたしかに個性を持つが、個性を持つものが人格ではないんだよな(この人の議論では、人格というのは精神的機能であったはず。たしかに精神的機能になぜ価値があるかといえば、それがかけがえのない個性を持っているからであろう)。しかしここでは人格=個性という前提で議論が進んでしまっている。

たとえ心臓という臓器が、人工的に代用されることのできないその人の個性を持っているとしても、その個性は、心臓という機械論的な機能に埋没して、全体の個性、すなわち人格に比べてごく小さなものではないかとされている。「小さな」という表現は的確ではないかもしれないが、脳そのものにわれわれの人格があると考えている。したがって、小さな個性を持っていると考えている人でも、その人が自分の臓器を提供してもよいと遺言すれば、医師は、臓器を移植できるとしよう。47頁

(仮に心臓が脳=精神活動に影響を与えるとしても、心臓が持つ「個性」に価値があるのは、それが精神活動に影響を与えるかぎりにおいてであり、精神活動が不可逆的にオフになった場合は、心臓に「個性」があると言っても意味はない。)

心臓は個性を持っているかもしれないが、人格ではない。脳は個性も人格も持つ。「個性」の方に引っ張られて、「脳は個性が大きい」「心臓は個性が小さい」と比較する意味はない。

また、その人の心臓を移植した場合、ドナーの心臓はレシピエントの精神状態に独特の影響を与えるかもしれない。しかし、それは人格の死の話とは別問題で、「移植によって人格に影響を与えることが許されるか」という問題である。