え、こだまの世界?

A day in the life of...

道具的価値から内在的価値へ

たいていの場合、ある行為や物事それ自体に価値を見出すには時間がかかるものだ。

ふつう、最初は手段としての価値を見出す。たとえば、新幹線の窓の外を見るのは、風景を見るのが好きなのではなく、本をずっと読んでいたので目を休ませるためとか、よい会社に就職のためには勉強しないといけないと生徒を説得するなど。また、洋楽やクラシックを聴き始めたのは、ある種の異性にもてるためなど。

風景を眺めることそれ自体、勉強をすること、洋楽やクラシックを聴くことそれ自体に価値を見出すには時間がかかる。時間をかけないと、その価値の味わい方がわからない。

ある行為や物事それ自体に備わる価値は内在的価値と呼ばれ、対照的に、それ自体ではなく、手段として価値があるものは道具的価値を持つと言われる。このように、多くの場合、人はまずある行為や物事に道具的価値を見出し、次第に内在的価値を理解するようになるということに気をつけなければならない。

したがって、ある行為や事物の内在的価値のわかっていない人に、いきなりその内在的価値を理由にそれを勧めてもうまく行かない。「ムーアはおもしろいから勉強するといいよ」ではなく、「ムーアを読まないと、卒業できないよ」と言えば、みな勉強する。と言うと言い過ぎかもしれないが。

同様に、慈善の動機も最初は不純でいいのだ。もちろん最後まで不純でもいいが。

しかし、なぜ時間をかけないとそれ自体を好きにならないようにできているんだろう?

答え:ムーアでもフッサールでもすぐに好きになったら、人生を棒に振る人が大勢出て社会が成立しなくなるため。
人間はまともな社会生活を営むために、いろいろな行為や事物をすぐに好きにならないようにできている。

まあ、それはともかく、みんなから非難されないために、研究会の準備に戻ることにしよう。*1

*1:以上、Twitterより。老人ぽい枯れたエッセイを鋭意練習中。