え、こだまの世界?

A day in the life of...?

教育についてさらにもう一冊

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

日本教育小史―近・現代 (岩波新書)

新書にしては分厚くて立派な本。生活綴方運動についても書いてある。

1948年春、戦前この運動に参加していた教師たちは、すぐに生活綴方を再興するのではなく、社会科に生活綴方の精神と方法を導入し、かつては教科書のない綴方でしかできなかった実践を、社会科で実践し、社会科に血を通わせることによって、学校教育の中核にしたいと考えたのである。179頁

戦後にできた「社会科」が最初は実験的な教科だったことは、上の大田の本にもある。

しかし間もなく、再び生活綴方を復興させようという動きが起こってくる。その生活綴方が教育界をこえて広く社会的に注視の的となったのは、山形県山元村中学生の詩文集『山びこ学校』(51年3月刊)の刊行によるところが大きい。教師の無着成恭は、社会科教科書の記述と山村の生活実態とのくいちがいを問題にし、社会の進歩につくす能力を育てるという社会科本来のねらいに立ち返り、教科書どおりの安易な指導をやめ、綴方を活用して現実の生活について討議し、考え、行動にまですすめる指導に取りくむ。
そして生徒たちは、「人間のねうちというものは「人間のために」という一つの目的のため、もっとわかりやすくいえば「山元村のために」という一つの目的をもって仕事をしているかどうかによってきまってくるものだということを教えられた」(卒業式答辞)といって、この学校を卒業していった。人間のねうちとは何であるかを追究し、人間の尊厳を打ちたてようというのは、すべての生活綴方教師に共通の姿勢であった。そして彼らは、人間的成長をはばむ社会的圧力の下にいる子どもたちの内的要求を解放し、彼らを民主的な生活の探求者に育てあげようと努めていたのである。この運動の推進にとって、生活綴方教育の理念・方法が具体的に書かれた国分一太郎『新しい綴方教室』(51年2月)の果した役割は大きい。179-180頁

なるほど。綴方というのは交換日記ではなく、作文であり、生活に根ざした作文ということか。戦前の話は、というと−−

『赤い鳥』の綴方や詩に触発されながら、なおそれらは都会の山手感覚に限られていること、また完成した作品を作家・詩人が評価することを批判し始めた一群の教師が現われた。それは、貧困と封建的因習のひろがる環境のなかで、しかも恐慌によって悲惨な状態を迎えた子どもたちに生活の事実を直視させ、それを綴らせ、教室で検討することによって社会認識を育てようとした。これは生活綴方教育運動といわれ、全国にひろがったが、とくに東北で活発であった。ときにそこでは「詩人に里子に出した子どもを教師の手に取り戻そう」と言われたりした。
1929年には、「教育生活の新建設」を目ざして『綴方生活』(小砂丘忠義編集)が創刊され、各地の綴方教師の交流・組織の場としての役割を果す。東北では翌30年、『北方教育』(成田忠久編集)が創刊され、34年には北日本国語教育連盟が組織された。ここに集まる教師たちは、子どもを「奔放な吸収力と、同時に猛然とした消化力をもつもの」であると見て、現実の暗さを閉じこめてしまうのではなく、その現実を克服する力を獲得させるために、生活の事実を把握させようとする。そして現在もっとも必要なのは、「「意欲性」が「知性」をとらえ「生活的知性」を獲得させること」であるとしていた。この教師たちは、国定教科書のない綴方という領域の充実によって生活指導をすすめ、そこにほんものの教育を実現しようと努力を重ね、着実に運動をすすめていった。しかも、文学を愛することの多かったこの教師たちは、肩ひじ張らず柔軟なかまえで仕事に取りくんでいたのである。115-117頁

なるほど、一種のプロレタリア教育活動だったわけか。