え、こだまの世界?

A day in the life of...?

届いた本 (試験管ベビーを考える)

1982年に徳島大で体外受精に関する倫理委員会が開かれたときに院長をやっていた麻酔科の医師による著。非常にバランスよく書けている。

質、量ともに十分な「公開の」論議を経ずに新しい医療技術の臨床応用に踏み切ると、不幸な事態を招くことがある。わが国における心臓移植手術はその一例である。1968年に札幌医大で行われたこの手術は、事前に必要かつ十分な対社会的手順(とくに脳死の問題の検討)を経ることなしに実施されたとの見方が強く、結局一種の暴走と見なされてしまった。羹に懲りて膾を吹くの類か、日本では心臓移植は一種のタブー視されてしまい、心臓移植をわが国で実施したというニュースはその後聞かない。…仮定の問題で恐縮だが、体外受精にしても、十分な事前の論議なしにスタートして、たとえば奇形児が出生したらどうなるであろうか。…世論が理性的な反応をせずに過剰反応を引きおこしてしまえば、心臓移植の二の舞になる可能性は否定できないのである。(5-7頁。cf. 115-6頁)

講義で使えるようにメモ。「借り腹(ホステスマザー)」という表現を目にする(91頁)。たしかに、ホストというよりは、ホステスの方が正確かもしれないが…。

新しい医療技術が開発されて応用が期待されているが、現在の社会に通用している倫理基準などに深刻な影響を及ぼしたり悪用されたりする危険がある場合、実行の是非と実施基準を誰がきめるべきであろうか。きめるのは当然社会全体であって、医師と患者だけがきめるべき問題ではない。この認識こそ、新しい技術と医の倫理について考える上での基本だと思う。(111頁)

残念ながらこの考えはみなに共有されているわけではない。「これまで新医療技術の導入は常に事実が先行し、実績が積み重ねられ、世論が慣らされるパターンで進められてきた、といっても過言ではない」(112頁)。

「患者が希望し医者がやる気になっているのに、なぜ第三者が口出しをしなければいけないのか。りっぱな専門家たちが悪いことをするはずがないではないか」という趣旨の電話や手紙が、今なお私あてにくるほどである。医の倫理を理解してもらうのはむずかしいものである。(116頁)