え、こだまの世界?

A day in the life of...

もろもろメモ

規制、禁止の根拠を問う

応用倫理学の仕事は、政府や社会による規制・強制が許される根拠を問う。個人の自由がデフォルトという意味では、リベラル応用倫理学だ。基本はミル。

生命倫理学は「死の文化」を奨励する学問か

[日本で脳死の議論が出てきた70年代半ばから80年代ころに]加藤尚武さんなどのような大御所が旗をふって、多くの若い研究者までが、アメリカの生命倫理学の輸入を始めるようになった。その当時から僕は周りの人たちに対しても、自分が関係する研究会でも、生命倫理学を取り上げるのはまずい、生命倫理倫理学をやっている集団の中で論じるのは絶対にまずいと猛烈に反対してきました。
その理由は、その当時は詳しいことはよく知らなかったのですが、直観的に、生命倫理学は相当に問題のあるイデオロギーであると思っていたからです。そもそもの成り立ちからし生命倫理学は、新鮮な臓器がほしいのだけれども、生きている人間から取り出すと殺人になる、ならば超昏睡の人たちを死人と言えるだけの根拠をつくり出し、死んでいない人たちから臓器を取り出すことに対する世間からの反発をかわすための言説装置であるということは、見えていたわけです。
(大庭健『情況』2006年11・12月号54ページ)

生命倫理学を脳死臓器移植推進派に占有された学問領域と考えるのは、経済学はマルクス主義者の巣窟だ、日本の倫理学者はみんな西田研究者か和辻研究者だというのと同じくらいの偏見だ。とはいえ、Culture of DeathのWesley Smithや「生命倫理学者=功利主義者」のAnne Macleanも同じように考えている人は英米にもいる。こういう偏見については、以前に創文で書いたように、ジョンセンなどアメリカの大御所生命倫理学者が批判している。
また、バイオエシックスを患者の権利運動と理解している木村利人にとっては噴飯物の解釈だろう。わたしはその系統には属していないが、バイオエシックスは、市民運動の一環として発展してきたという経緯がある。生命倫理脳死問題だけではなく、終末期医療などにおけるパターナリスティックな医師患者関係を打破する運動としても展開してきたからだ(この点を大庭先生は意図的に省略したのかもしれないが)。
ま、しかし、生命倫理は権力と癒着しやすい位置にあるのは事実。ビジネスエシックスなどについてもいえるが、倫理学者が体よく利用されることもありうる。市民派・反体制派の人々にとっては、体制派、御用学者、政府の犬、その他もろもろに映るんだろう。自分の立ち位置を意識しながら発言しないと、地雷を踏むことになる。大庭先生のありがたい親心と思って気をつけよう。