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日本の生命倫理―回顧と展望 (熊本大学生命倫理論集)

日本の生命倫理―回顧と展望 (熊本大学生命倫理論集)

加藤尚武「日本での生命倫理学のはじまり」

日本の大学の哲学は、非常にドイツ哲学に偏る体質をもっていた。日本での哲学の営みは、西洋で哲学史の記述が定番化した19世紀から20世紀の前半にはじまった。大量の哲学史の教科書が輸入され、それらの翻案という形で日本製の西洋哲学史が作られた。さまざまな歴史の波をくぐって生き延びたのは哲学史の類型である。いま、書店で「哲学概説」という類の本を開けば、その中身はほとんど哲学史である。高校の倫理の教科書も東西の倫理思想史を並べるかたちで作られている。世界中で、哲学の教科書が哲学史で塗り固められているという文化を作っているのは、現代の日本だけである。4頁

だそうです。韓国や台湾やタイの哲学教育はどうなってるんだろう。

医療技術に関連した、前例のない事例に対して、「いいか、悪いか」の吟味をするのが、バイオエシックスの仕事であるということが社会的に認知されてきた。7ページ

伝統的な意味での倫理学の原則が適用できるかどうかが分からない「前例のない事例」に対処するために、いわば急場しのぎに人工的に作成された学問領域が応用倫理学である。14ページ

「前例のない事例」というのがキーワードだな。

最善の専門家を集めて会議を開けば必ず対立した意見が集約不可能になる。しかし、決定は下さなくてはならない。たとえば間接喫煙の危険度がどの程度まで実証されたならタバコの発売禁止という法的な措置をとってよいか。完全な予測は可能になるのがつねに遅すぎる。民主主義的な合意形成が真に有効な条件は限られている。決定は即時に下さなくてはならない。15ページ

このあたり、松下の老先生と口ぶりが似ている。

実際のアクチュアルな状況では、ミクロ・マクロをふくめて、いずれの局面も、政治はたえず「条件複合」する〈全体〉ですから、条件純化をふまえる数理モデルにはのらない、しかも不完全情報による〈予測・調整〉をめざし、動機も「状況」のなかでたえず複合する「決断」という、政治責任をともなった思考の緊張が主題となります。(松下圭一、『現代政治:発想と回想』、2006年、77頁)

このあたり。某名誉教授の方がわかりやすいが。松下老先生は、実証的な政治科学と、自分の政策型思考を比較している。某名誉教授にとっては、哲学史研究と応用倫理学との対比だ。

現代における哲学研究の目的は、人類が共有すべき原則は何かを明らかにし、応用倫理学が現在提起している諸問題に対処することである。、、、先端技術に関連する問題を考えると、過去の倫理学説のどこにも類例がないことが多い。たとえば「代理母」「サイボーグ人間」「クローン人間」などの倫理問題の解答は、伝統的倫理学のテキストのどこを探しても類例がない。応用倫理学の方が、倫理学のより根本的な問題を扱っているという逆転現象が起こっている。17-18ページ

「応用倫理学の方が、倫理学のより根本的な問題を扱っている」というあたり、大庭先生とは意見が異なる。では、倫理学のより根本的な問題とは何か。某名誉教授によれば「人類が共有すべき(道徳)原則は何か」なんだろう。これはやはり一人称単数「わたしはどう生きるべきか」というよりも、より社会的な一人称複数「われわれはどういうルールのもとで生きるべきか」という問いなんだろうな。