昨晩はマンガを読んだりしてつい夜更かしをしてしまったが、朝は比較的早めに起きる。食器の片付けとゴミ出しの準備。
早起きしたのは、ゴミを必ず出すようにと某妻に強く言われていたためか。今日は燃えるゴミの日のこともあり、外で烏同士でいろいろ伝達しあっている。曇り。洗濯物。肌寒い。
シリアル、休刊日…ではないのか。新聞を読もう。
ゴミを出す。烏が雑草の入ったゴミ袋を少し突っついていたが、中身がわかってさっさと別のところに行ってしまった。賢いな。
ヘイグルの勉強。
「友情と愛は存在論的に絶対者、すなわち「即自かつ対自」である。」
「えっ?」
著作の意味について
「この本は一体全体なぜ書かれたのですか」という問いに対して、「私がこの本を書いたのは…」と著者が説明するとき、本が持つ目的、あるいは本を書いた動機について語っている。それは本の中には述べられていないかもしれないし、序文や後書きなどに書かれていたとしても、本全体を眺めた視点から述べられている。
お昼前、ヘイグルの勉強をしていたら眠くなってきたので、少し仮眠。ちょっと某翻訳チェックをするか。
お昼は辛ラーメンなど。
午後、ついスイッチをしてしまう。そのあと、しばらく誤情報とか米国の国賓待遇とは何なのかとか調べる作業。
夕方、再びヘイグルの勉強をしていると寝てしまう。睡眠導入剤として処方できるんじゃないかと思うほど、眠りに導く力を持っているな。しかし、もうちょっと勉強しよう。
欲望は悪魔の誘惑である
ピエティズムの素朴な信仰では、「欲望は悪魔の誘惑である」、禁欲によって神の意志に服従することが、自己を完全化することになる。外なる悪霊が内なる霊魂を遠隔的な因果性によって支配する可能性がある。
カントによれば、感性的な動機に従うことは、自然的因果性の支配に服することである。この構造は「欲望は悪魔の誘惑である」とまったく変わりがない。純粋理性(定言命法)に従うことのみが自己の自律である。内なる自然(身体性)が魂を支配することが他律であり、精神が理性に従うことが自律である。
ゲーテによれば、感性的な動機に従うことは、自己の内なる自然の発現であって、その自然は神である自然の一部である。自己の内なる自然こそ本来的な自己であって、禁欲は他律である。(加藤尚武著作集2 著者解題458頁)
なるほどねえ。その少し前には次のように書いている。
なぜ、「ヘン・カイ・パン」(一にして全、スピノザの汎神論)という形而上学的な展望が歓喜なのか。ロマン派的エロ小説を読めばわかる。ゲーテが人気作家になったのも、ルソーのドイツ版のようなエロティシズムを作品化したからである。そこにはピエティズム的原罪説からの解放感が満ち溢れている。(同457頁)
書名はわからないが、先生もエロ小説を読んで勉強していたんだろうか…。
夜、夕御飯。カレー。カレーはつい食べすぎてしまう。
その後、しばらくヘイグルの勉強。
夜中、ホッブズの勉強。ついスイッチをやってしまう。スプラのアルバイトは危機管理というか、危機意識について考えさせられるところがある。何にせよ、必殺技というのは危機を意識して適切なときに出さないといけない、というような話。
シャワー。ホッブズの愚か者の話は、以前に何度か勉強した気がするが、メモなどが出てこないので少し探していると、Stephen DarwallのPhilosophical Ethicsの要約が出てきた。でも一番最近見たのは、ジョジョを再読したときだった気がする。
さて、寝るべし。