え、こだまの世界?

A day in the life of...

正しさと善さ(よさ)、および正しさと正義の区別について

前置き:先日、功利主義を説明した他人の文章を読む機会があり、「最大多数の最大幸福を追求する行為が善い」というような表現があり、「正しい」と「善い」が相変わらず区別されていないのが気になった(私なら、快楽や幸福が「善い」ものであり、善いものを最大化する行為が「正しい」と書くだろう)。また、パリで某先生と話をしていたときに、the goodを「善」と訳すのは間違いだという話があり、それで思い出して下記の自分の論文を読むと、そのあたりのことが比較的適切に書かれていたので、備忘用に、関連する部分だけ抜粋して記しておくことにした。本当は、そろそろ配本される『実践・倫理学』にボックスとして書くべき内容だったが、すっかり忘れていたので、もし追補する機会があればそうしたい。

なお、論文自体は、ロールズの善に対する正の優先性というテーゼを批判的に検討したものだが、ここに述べてあることは、正しさ、(道徳的な意味での)善さ、(非道徳的な意味での)よさ、正義などの言葉をちゃんと区別して使うべきだという話。

(児玉聡. 2013. “功利主義批判としての「善に対する正の優先」の検討.” 社會科學研究 64 (2): 49–72.より。原文はPDFで入手可能

 

 英米倫理学において正しさとよさが明確に区別されるようになったのは,ムーアからだと思われるが,この区別について最もわかりやすい説明を行なっているのは,フランケナである.

 まず,よさと正しさの区別についてである.フランケナは『道徳についての思考』(Frankena 1980)において,道徳的なよさと道徳的な正しさを次のように区別している.「非常に大まかに言うと,行為については道徳的に正しいとか責務であると言われる.一方,意図,動機,特性,人格等の他のものについては,道徳的に善であると言われる」(Frankena 1980: 48/97).英語でも一般には「よい」と「正しい」は相互に置き換え可能なものとして用いられ,行為についても「それはよい行いである」と言われることもある.しかし,「人は悪い動機から正しいことをすることもありうるし,善い動機から正しくない(間違った)ことをすることもありうる」(ibid.).そこで,正確に言えば,道徳的な正しさは行為について言われ,道徳的なよさは人柄や動機について語られるという風に,両者を区別すべきである.日本語においてもよさと正しさを区別して用いている人は少ないため,この点は重要である.

 フランケナは別の著作で正しさとよさについてより詳しい説明を行なっている.その著作とは,『倫理学』(Frankena 1963)である.フランケナは本書の第一章で,善を道徳的価値(moral value)と非道徳的価値(non-moral value)の二つに大別している.この区別は非常に重要だが,正と善の区別を論じる人々でこの区別を十分にしている人は少ないと思われる.まず,道徳的価値としての善とは,「わたしの祖父は善い人だった」とか「ザビエルは聖人だった」などの価値判断に現れる善である.これは上で見たように,人柄や動機について道徳的評価を行なうものである.それに対して,非道徳的価値としての善とは,「あれは よい車だ」とか「あの人はあまりよい人生を送らなかった」などの価値判断に現れる善である.両方とも価値判断という点では共通しているが,前者は道徳的評価が可能な対象(基本的に人間や人間が行なう活動)に関する評価であるのに対し,後者は「頭がよい」とか 「目が悪い」というときの評価である.

 広辞苑を引くまでもなく,日本語では「善」はもっぱら道徳的な意味で用いられると考えられる.そこで,正確に言えば,「善の構想」や「善き生の構想」などの日本語表現は適切ではない.たしかにソクラテスのいう「よく生きる」というのは,正義に適った人生を送るということだと思われるので,「善く生きる」と表記してよい.だが,リベラルな社会において各人が自由に自分の「よき生の構想」を追求してよいと言われるとき,それは各人に「道徳的な生き方をせよ」ということではない.

 たとえば,あるプロ野球選手が大リーグに行くことを決めたとする.その場合,彼にとっては,大リーグに行かずにプロ野球選手として一生を過ごすよりは,成功するにせよしないにせよ大リーグで自分の力を試す人生の方が優れていると考えたからそうするのであって,大リーグで活躍する人生が道徳的に優れた人生だと考えたからではないだろう.

 もちろん,人によってはたとえば医者や聖職者になって多くの人を助ける人生の方がそうでない人生よりも道徳的に優れているからという理由でそれを選ぶ人もいるだろう.車や服やワインと比べると,人生設計の評価については道徳的評価と非道徳的評価を切り離して考えることが若干難しいかもしれない.しかし,「善の構想」とか「善き生」の構想という翻訳は,過剰にそうした道徳的な面を強調することになり,みながみな求道的な生活をしているかのような印象を与えてしまう.ほとんどの人は,ある生き方より別の生き方を選ぶのは,それが道徳的によいからではなく,自分の好みや適性にあっているとかそうした理由からであろう.そう考えるなら,「善き生」ではなく「よき生」と表記し,「各人はよき生の構想を追求することが許される」と言った方が,卓越主義的に誤解される可能性が生じにくいと思われる. 

 次に,正と正義について述べる.通常,少なくとも英米倫理学の分野では,「正しさ」と「正義」は区別して用いられる.フランケナが言うように,「正義の領域は道徳の一部であり,その全体ではない」(Frankena 1963: 36/65).これは,ロスのような義務論でも,功利主義でも同様である.たとえば,正義にかなった行為だけでなく,善行を行なうことも正しい行為である.再びフランケナの具体例を用いれば,「近親相姦や児童虐待は不正(wrong)であるが,それを不正義(unjust)と呼ぶのはまず適切とはいえない.他の人に快楽を与えることは正しい(right)ことかもしれないが,正義にかなっている(just)とは適切に言うことはまったくできない場合もありうる」(ibid.).*1

 

*1:児玉追記:ただし、今日では児童虐待はこどもの権利を侵害していると考えられるだろうから、「不正義」と呼んで差し支えないと思われる。