え、こだまの世界?

A day in the life of...?

中央公論、加藤論文

中央公論 2008年 02月号 [雑誌]

中央公論 2008年 02月号 [雑誌]

「〈京大オーバードクター生一掃期〉二足のわらじを履きなさい」。

日本の大学では学部と大学院がタテマエ上は独立しているが、実態は同じ授業を学部学生と大学院生が同時に聴講しているという状態で、学部学生を排除して大学院生だけを相手にするという授業形態は、私が京都大学を定年で退職する2001(平成13)年3月までは倫理学研究室では存在しなかったと思う。(44)

あら、こんな暴露話して大丈夫なのかな。きっと大丈夫なんだろう。わたしは知りませんよ。ははははは。

教室にオーバードクター生と学部の学生が共存するということは、学部学生の研究の質を高めるのにとてもよい。学部の学生がいい加減な研究発表をすれば先輩であるオーバードクター生からこっぴどく追及されるし、研究上の細かい点でもオーバードクター生が学生に指導するほうが効果的なのである。教師の側からすれば無給で働いてくれる助手がいるようなものだ。(45)

先生、それは労働力の搾取です。

私は大学院の学生に「二足のわらじを履きなさい」と指導してきた。伝統的なスタイルの研究と応用倫理学の研究との両方ができなければいけないという趣旨である。…。
伝統的な倫理学と応用倫理学の二足のわらじを履くとはどういう意味か。…。
いわゆる「伝統的なアカデミックな研究」というのは、19世紀に大学制度ができて、「学問の自由」が認められたときに、純粋な知性、象牙の塔というような、純粋な知こそが本質的な真理を担うというアカデミズムに固有のイデオロギーが作り出した、虚像としての学問像である。真実の学問は、現に国民が選択の前に立たされているような大きな難問を解くことに寄与してこそ存在理由がある。そのような寄与を通じて、「純粋な学問」が陥る独善を批判することが研究者の本来的な責務なのだ。学問批判を忘れた学問は必ず腐敗する。学問批判を可能にする、試練の場が応用倫理学である。だから二足のわらじを履く必要がある。これが私の主張したいことである。(46-7)

なるほど。このあと、「1978年にビーチャムらが『生命倫理百科事典』を刊行した」(49)と述べられているが、それは間違いだろう。Warren T. Reichのはず。

国家財政の緊縮で研究者の定員増加が非常に困難になっている現在、研究領域のスクラップ・アンド・ビルドのより有効な方法を開発して、オーバードクター生の存在を解消する道を作らないと、日本は、「資源枯渇をイノベーションで乗り切る」という21世紀の課題から取り残されていくだろう。(50)

そのとおり。