え、こだまの世界?

A day in the life of...?

思想史の快楽

勉強中。思想史っていうのは、本当に純粋な喜びがあるよな。こういう違う世界観があるんだ、とか。
もうちょっと正確に言うと、思想史の醍醐味はなんだろう。某偉いベンタム研究者の先生は、ある思想家が別の思想家と血縁関係にあったり、手紙を送っていたりしたことを発見するのが思想史の醍醐味とか書いていた気がするが、オレの場合はそういうのではない(そういう楽しみもあるには違いないと思うが、ツボが違うとしか言えない)。そういう「史跡発掘的(?)な楽しみ」ではない。
思想史の現代的意義とかあえて考えずに、思想史の醍醐味を考えるに、、、他人が知らないことを知る喜び、というのもあるかとは思うが、それも最大の喜びではない。
「概念と概念のつながり」「異なる物の見方を理解すること」、、、なんかそのあたりだろうか。
たとえば今読んでいるsympathyという語が18世紀ごろのイギリスでどう受け入れられ、どう衰退していったかというような話(EL. Forget, Sympathetic Imagery in Theory and Physiology.)。これはかなりおもしろい論文だと思うのだが、なぜおもしろいか。Sympathyがスミスやヒューム的な心理学的なものとして考えられていただけではなく、当時は流行概念であり、医学的・生理学的にもスコットランドを中心に真剣に分析されていたという話、またanimal magnetismやmesmerismなどのオカルト科学にも結びついていた概念だったという話、さらに、こうしたオカルト科学が「フランス唯物論的」だったために、フランス革命に対する反動から19世紀英国ではsympathy概念が廃れていくという話、などなど、sympathyという概念の全体像(bigger picture)を与えてくれて、これぞ思想史(history of ideas)という感じがする。ああ、一つにはこういう背景があって、ベンタムはsympathy理論を批判しているのかもしれない、とか考えてみたり。つまり、一つの代表的な概念を解説することで、当時の人々の思想的生活が垣間見える、というところがおもしろいのかな。
いや、それだけでなく、やはり自己理解・現代理解にもつながってるところもおもしろいんだよな。それが思想史の現代的意義と言えるところか。
とにかく、思想史の勉強はときどき(マンガ喫茶に行きたい欲求を忘れさせるほどの)強烈な喜びがある、ということをメモしておきたかったので、記しておく。
そういえば、最近は論文を書く快楽(および苦痛)というのを忘れているなあ。文章を書かないといかん。