- 作者: 森鴎外
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1998/05
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なんか覚書のようで、体系的な伝記ではないが、次の記述がおもしろい。
《友人中には、他人は「情」をもって物を取り扱うのに、わたくしは「智」をもって取り扱うと云った人もある。しかしこれはわたくしの作品全体に渡ったことで、歴史上人物を取り扱った作品に限ってはいない。わたくしの作品は概してdionysischでなくって、apollonischなのだ。わたくしはまだ作品をdionysischにしようと努力したことはない。わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それはただ観照的ならしめようとする努力のみである。》
私はドイツ語がよめないので、右の二語の意味が分からないが、先生の「観潮楼偶記その一」の中に、《第一、情を写すに感情的と観照的との別あり》とある、それではないかと思う。
そうだとすれば、先生がもともと科学者だからだと思う。455-6頁
鴎外の発言をどう理解すべきかを考えてニーチェの『悲劇の誕生』をぱらぱらと読んでみたが、ディオニュソス的とアポロ的の区別は論者によってさまざまに解釈できるだろうから、よくわからんな。日本文学であれば、「森鴎外におけるapollonischなものについて」なんていう題で卒論が書けるんだろう。
それにしても、「もともと科学者だ」というのは単なる偏見ではないのかな。あるいは、科学者はapollonischだというのは分析的な真理なんだろうか。
- 作者: ニーチェ,Friedrich Nietzsche,秋山英夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1966/06/16
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ついでに、一箇所おもしろかったところを。
現代におけるほど、高等学府の真の教化力が低下し、弱体化したことはおそらくかつてなかったことであって、教化という点では、どこから見ても、紙で作られたその日その日の奴隷である「ジャーナリスト」のほうが、高等学府の教師たちを抑えて、勝利をおさめている。そこで教師たちも、これまでにもよく見られた図であるが、仕方なく姿を変え、ジャーナリスト的なものの言い方を身につけ、この社会特有の「軽快な優雅さ」を示しながら、陽気な教養のある蝶となって飛び回るほかに道はないのである。185-6頁
悪態をつきたいときは、ニーチェを読んで訓練するようにしよう。