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看護に生かすバイオエシックス―よりよい倫理的判断のために

看護に生かすバイオエシックス―よりよい倫理的判断のために

戦時中だったとはいえ、ドイツでも日本でも、またその他の国々で医学と看護と軍部とが結びついて展開された負の遺産にも目を注ぎ、二度と過ちを繰り返さないための誓いが、第2次大戦後の世界の歴史のなかで「バイオエシックス」として結実する基盤にあったことを銘記しなければなりません。そうでなければ、バイオエシックスの考え方は、歴史的な視座と過去の反省への洞察を無視した、単なる医療や看護の臨床現場での応用倫理学へと貶められてしまうからなのです。(木村利人、8頁、強調こだま)

耳が痛い…。しかし、あえて問うならば、歴史的視座や過去への反省によって、具体的に何が得られるのか。また、「単なる医療や看護の臨床現場での応用倫理学」の、いったい何がいけないのか。歴史は重要とはいえ、歴史的視座が自虐的なものになったり、単なる好事家的関心になったり、反省のための反省になったりしても意味がない。歴史から得られた知見(それが何であれ)が、「臨床現場での応用倫理学」の一部として役に立たなければ、意味がない。しかし、どのようにして?

バイオエシックスの考え方というのは、いわゆる「応用倫理」や伝統的な「看護の倫理」を基盤にしたハウ・ツーのアプローチを問い直すことからスタートしているのです。医療や看護についての「倫理的な考え方」の"技術"の習得と、そのマニュアル的"応用"が目的であってはならないのです。従来、患者の人間としての尊厳と人権を守るというよりも、医療側の「パターナリズム(paternalism: 父権的温情主義)」を尊重してきた伝統的な医療倫理・看護倫理の根源的な問題点を問い直すことが、約30年にわたって、私が世界の各地で展開し、形成してきたバイオエシックスの出発点にある考えなのです。(木村、15頁)

やはり、バイオエシックスを人権運動の一環として考えているんだよな(cf. 18-19頁)。それはそれでよい。ただ、倫理が問題になる状況には二種類あって、(1)あからさまに反倫理的な行為がなされている場合(インフォームド・コンセントなしで患者にがんの臨床試験を行うなど)、(2)倫理的に行為したいと思っているが、どのようにすればよいのか分からない場合(国際的な臨床試験でのプラセボ試験が倫理的かどうかわからない場合など)がある。人権アプローチは、(1)には有効だと思うのだが、(2)(「応用倫理学」的問題)に対して何が言えるのか。

バイオエシックスは「応用倫理学」ではありません。なんらかの原理や原則をあらかじめ定立しておき、それを応用、適合させて問題を解決する方式は、もはや通用し得ないほど変化の激しい時代に私たちは生きています。(木村、39頁)

木村先生が言うので説得力があるが、本当にそうなのか。(1)原理・原則を応用して問題を解決する方式は、変化の激しくない時代であれば通用したのか、(2)変化の激しい時代でそれが通用しないのはなぜなのか、(3)「歴史から学ぶ人権アプローチ」は、変化の激しい時代でも通用するのか、(4)「歴史から学ぶ人権アプローチ」は、原理・原則を応用して問題を解決する方式と、どう違うのか、(5)「応用倫理学=なんらかの原理や原則をあらかじめ定立しておき、それを応用、適合させて問題を解決する方式」か。

バイオエシックスは、いままで全く考えられもしなかった新しい具体的なケースや状況のなかで展開されつつあります。したがって、現場での出来事に関連する当事者間の人間的交流、相互作用、対話のプロセスが重要となります。これに直接・間接的にかかわりをもつ人々による「平等な参加」と「分かち合うこと」、つまり「いのち」に関する「情報」「決断」「方策」を共有しよう、というのがバイオエシックスの考え方なのです。(同)

対等な関係での医療者と患者の対話。しかし、「話せばわかる」というだけなら犬養毅と変わらない。歴史的視座から得られるバイオエシックスの洞察というのは本当にそれだけなのか? 何をどう話せばいいのか?