え、こだまの世界?

A day in the life of...?

届いた本 (クローン羊)

岩波ブックレット。最後の部分がおもしろい。

政策志向的な議論が必要

生命倫理という俗受けする言葉は、誤解を招きやすい要素を多々含んでいる。生命と倫理という一見、高級そうな言葉が二つ並んでいるため、高邁な哲学を展開する学問だと思われがちである。だがもともと倫理的な問題は、個々人が思い悩みながら決断することであり、それ以外にはありえない。広く論じられなくてはならないのは、研究や医療の現場での当事者の選択に対して、社会としてどのような論理で枠をはめ、その原則をどのような仕組みで守っていくのかという問題である。要するに、どのような対応策が必要かという政策志向的な議論を行うべきなのである。(57)

後半はその通り。某名誉教授のいう「合意形成のための学問」だ。

前半に関してはどうかな。「だがもともと倫理的な問題は、個々人が思い悩みながら決断することであり、それ以外にはありえない」というのはどうだろうか。こう言われてしまうと、倫理学という学問は成り立たなくなりそうだ。この主張が前提としていると思われる「倫理に答えはない」というような考え方は、戦後日本のいつごろから生まれてきたんだろう。やっぱり実存主義の影響なのかな。

このあたり、気になるな。倫理にも合理性があるという考え方は、英米だと実存主義や情動主義によって一旦否定され、ヘアたちのおかげで復活したのかな? あるいは実はそれほどは復活してないのか。

この点、日本の大学アカデミズムにおける生命倫理研究は決定的な欠陥をあらわにしている。自称・生命倫理学者の多くは、もっぱら欧米の研究論文を消費することに辛うじてその存在理由を見出してきた。これまでに、生命倫理が重要だからという理由で、少なくない研究費が投入されてはきたが、その多くは毒にも薬にもならないシンポジウムの開催か、ともかく調査はいたしましたというアリバイ作りのためのアンケート調査に消費されてきた。これだけ生命倫理の問題が重要といわれながら、この問題群の実像に切り込む実証的な調査研究は、この日本では実に少ない。それは、本来この種の問題はすぐれて政治的課題であるにもかかわらず、政治的な問題を忌み嫌う精神的にひ弱な大学の住人の、業績稼ぎの逃げ場になっているからである。(58)

耳が痛い。読んでいて思い浮かんだこと。

  • 若い学問だから大目に見てやってもよいのではないか。テキストも教育もなく、やり方がわからなかったし。これからに期待してくだされ。
  • 外国の思想の輸入が明治時代からの人文学者の大きな務めだったので、まあこれもある程度は大目に見てやってくだされ。
  • 調査に体系性がないというのはその通り。分析するだけで総合する努力が足りない。
  • 政治的問題に関わりたがらない、精神的にひ弱、単なる業績稼ぎというのは、その通り。腹を決めてかかる必要がある。生命倫理学は知的ゲームではない(知的ゲームとしても使えるが)。生命倫理学者は外野や野次馬であってはならない(が、御用学者でもいけない。バランスが必要。さもなくば有害になる)。

では、どういう「実証的な調査研究」が必要なのか。

包括的な調査報告書が作れる組織を

もし、これまでの諸外国の体験に完全に従うとすれば、まずは包括的な調査報告書を作って問題を整理し、その上で幅広い議論の場を設けるべきだということに尽きる。この調査報告書は、規制政策についての合意を得るための基本資料となることを念頭に、国全体の視点から、技術の現状・諸制度・社会的価値・各国の状況についての総括報告でなければならない。・・・課題ごとに有能な人材を期限を限って集めて報告書を作成することを、国の業務として行えるような組織を作ればいいのである。(58-9)

なるほど、常設ではなく時限付きの調査委員会を作ってやるというわけか。しかし、肝心のその人材はどこにいるんだろう。人材育成という観点はあるのかな。