え、こだまの世界?

A day in the life of...?

道徳教育論

おもしろい。筆者は(ロック流の)自然法論、道徳生得説の立場で、その部分はあまり納得できないが、いろいろ考えさせられる。

道徳は教えられるか。たとえば、「盗みをしてはいけない」ということを知らない子どもがいるとせよ。この子どもにどのようにしてこれを教えることができるか。「賞罰によって」という答えが与えられることがある。盗みをしなかった場合は賞を与え、盗みをした場合には罰を科す。これを繰り返すならば、子どもは盗みをしないように習慣づけられるというわけである。はたしてそんなことが可能か。71頁

著者はこういうスキナー流の条件づけ理論を批判している。

仮にこのようにして子どもが盗みをしなくなったとしても、それだけでは道徳を教えたことにはならない。子どもがただ習慣づけられたとおりに行動するだけであれば、よく調教された犬と変わらない。子どもは、盗みをしてはいけないと意識し、この意識にしたがって行動するのでなければ、道徳を学んだことにはならない。子どもは、賞罰を善悪と結びつけて理解しなければならない。いかにすれば、これが可能か。71頁

これは重要な指摘。「怒られるから嘘をつかない」ではなく、「怒られるから嘘をつかないのではなく、悪いことだから怒られるのであり、まさに悪いことだから嘘をつかない」という規範的意識はどうやって形成されるのか。

そもそも賞罰が賞罰として機能するためには、子どもは賞を好み、罰を嫌うことが必要である。この傾向は、子どもに生得的に備わっている。賞罰に対する好悪それ自体を教えることはできない。同様に、善悪を意識する能力もまた、子どもに生得的に備わっているのではないか。71頁

それは飛躍している気がするなあ。快苦に対する傾向は、生得的だとは認めるが、善悪を意識する能力(規範意識)も同様だとは直ちには言えなさそうだ。

善悪を知らない子どもには、賞罰はたんに賞罰としてとどまり、善悪と結びつけることはできないはずである。善悪を感じる心自体は、外部から教えてつくられるものではなく、子どもに自発的に芽生えるものである。犬は、いかにうまくしつけても、善悪の意識をもつようにはならない。犬には善悪を知る生得的能力が欠けているからである。人間には善悪を意識する生得的能力が備わっている。それゆえに人間は、適切に賞罰を与えられれば、善悪の意識をもつようになるのである。71頁

犬は「Aをすると怒られる」ということは学べるが、「悪いことをすると怒られる。Aは悪いことである。したがって、Aをすると怒られる」という三段論法を帰納的に学ぶには至らない。Aをすると怒られるだろうという予測はできるようになる(しつけ)が、なぜAをすると怒られるのか、その理由については理解できない。

これが事実だとしよう。しかし、これは推論能力の差であって、善悪を意識する(特別な)生得的能力を人が持っているとまでは言えないだろう。善悪の意識は推論能力の助けによって、後天的に作られるという理屈も成り立つ。ここは実証研究も含めてもうちょっと詳しく検討すべきおもしろいところ。こないだのピンカーの本も読まないと。

人間は、人間であるかぎり、道徳にしたがうことを望んでいる。あらゆる困難を越えて道徳を守る人間もいれば、わずかの困難に負けて不道徳を犯してしまう人間もいる。道徳を守る人は、自らを正当化する必要はない。本来望んでいることをしているからである。逆に、不道徳を犯す人間は、自分の不道徳をなんらかの仕方で正当化しようとする。不道徳がその人の本来の心に反しているからである。この本質的事実に気づけば、人間は進んで道徳にしたがうことができるようになるであろう。道徳を守ることは自ら望んでいる生き方なのだということに気づかせること、これが道徳教育の基本である。81頁

あ、もうだめだ。やっぱり我慢できん。以下、無責任に書き散らす。こういうことを言う人は、育ちがいいのか何なのか知らないが、自分の道徳的直観が正しいものでありかつ社会の多数派であると信じすぎであって、もうその前提からして腹が立つ。そもそも善悪の意識が生得的だというのは、まるでトイレで用を足す習慣は生得的だというのと同じくらい、幼児のときにそこら中におもらしした記憶がないのをいいことに、都合のよい説明をしている。

野蛮人「でも、神が存在すると感ずる方が自然じゃないでしょうか」
総統「そんなことをいうのは、ジッパーでズボンを締め上げるのが自然かどうか問題にするのと同然だよ」

ハックスリー『すばらしい新世界

何がそんなに腹立つのかな。試みに、道徳を「トイレに行く」、不道徳を「失禁する」に変えてみよう。

人間は、人間であるかぎり、トイレに行くことを望んでいる。あらゆる困難を越えてトイレに行く人間もいれば、わずかの困難に負けて失禁してしまう人間もいる。トイレに行く人は、自らを正当化する必要はない。本来望んでいることをしているからである。逆に、失禁してしまう人間は、自分の行為をなんらかの仕方で正当化しようとする。失禁することがその人の本来の心に反しているからである。この本質的事実に気づけば、人間は進んでトイレに行くことができるようになるであろう。トイレに行くことは自ら望んでいる生き方なのだということに気づかせること、これがトイレ教育の基本である。

いや、これではわからんか。なんなんだろうなあ。やっぱり「道徳的であること」をわれわれは「本来的に=真に」欲求しているという、「本来的に=真に」の使い方が脅迫的で嫌なんだろうなあ。「現在、道徳的になろうと欲求していないお前は間違っている。本来のお前なら、それがわかるはずだ」っていうのは、どうやったら本来のオレになれるのかを示してなくて怖いんだよな。forced to be freeという発想の怖さか。

われわれは、共通の価値判断を求めている。・・・この事実を素直に認めるならば、価値判断には客観的な根拠がないから、各個人が自分で決定すればよいという考え方をとれないことは明らかであろう。価値判断は現に各個人が行っている。・・・しかし、われわれはそのような個人的判断をすべて妥当だと認めることはできない。妥当だと認めるべき価値判断は個人の主観とは別に存在すると考えなければならない。そう考えればこそ、共通の判断を求めるわれわれの努力が意味をもつ。157頁

論点先取になってるのかな。「価値判断には客観的な根拠がある。なぜなら、価値判断に客観的な根拠があると信じているからこそ、われわれは現に共通の価値判断を求めているからである。」

コールバーグ批判も、おもしろく十分に検討すべきであるが、よくわからないところがいくつかある。時間がないので一つだけ。

問題は、道徳判断を形式と内容に分け、内容を無視して、形式の発達段階だけを問題にするところにある。・・・
われわれが実際に道徳判断をするとき、最終的に重要なのは正しい結論を得ることであって、推論過程はあくまでもその手段にすぎない。先の例を用いていえば、薬を盗むべきなのか盗むべきでないのか、これこそが問題である。・・・
重要なのは、内容の点で正しい判断に到達することであって、形式はそのための手段にすぎない。少なくとも、実際生活においては、理由づけが見事だからといって、同じ盗みが正しいとされたり、誤りとされたりするわけではない。そんなことが許されれば、詭弁が道徳を支配することになるであろう。173頁

他律的思考から自律的思考への発達段階を論じたコールバーグの理論は、「何が正しいか」という内容には立ち入らず、どういう理由付けをするかという形式だけを問題にしているというところ。ここにも、筆者は道徳的な答えはすでに客観的に決まっており、理屈は跡付けでしかないという前提をしているように見える。しかし、道徳的な答えのよしあしは、結局のところ、その理由のよしあしで判断するしかないのではないか。この主張は前提してもよい気がしていたが、やはり論証しないといけないのか。

「世の中には、良いことは良い、悪いことは悪いのであり、道徳に理屈は必要ではないという人がいます。しかし、倫理的問題について、あなたが絶対の確信を持って提示する答えが、確実に正しいとは限らないのです。中絶や尊厳死について、あなたと正反対の答えを、絶対の確信を持って述べる人が必ずいます。そのとき、どちらが正しいと判断したらよいのでしょうか。多数派が正しいと判断すべきでしょうか。あるいは確信の度合いをなんらかの機会で測定して勝者を決めるべきでしょうか。・・・
そうではなく、道徳的な問題に対する答えの優劣は、数学における証明(ほど厳密にはいかない場合が多いのですが)と同様に、理由のよしあしで決めるべきだと思われるのです。中学生に幾何学の証明問題をやらせると、多くの生徒は、自明な結論を支持するために誤った証明をしてしまいます。道徳においても、同じことが起こりうるのです。・・・」とかなんとか。

とにかく、道徳においては真理が先にあって、理由づけは二の次だという考え方には同意できない。"we must follow the argument wherever ... it may lead us" (Republic 394d)というのは大変だが、そうなのだ。

しかし、なぜ道徳においてはこういう主張がたびたびなされるのか、よく考える必要あり。やはり多くの場合、答えの自明性が他の問題に比べてはるかに高いからだろうか。