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酔っ払いながら読書

Causing Death and Saving Lives (Pelican)

Causing Death and Saving Lives (Pelican)

第20章。

これ[自然な直観的感情に反するかもしれない、全体として最善の結果をもたらす行為が正しいという考え]は神や火星人のための道徳かもしれないが、人間の道徳ではない、という反論があるかもしれない。p. 286

なるほど。やっぱりネ申か火星人ですか。

1. 道徳的距離:ミルグラムの心理学的実験。「統計的」生命。膨大な数字の死者。心理的な距離のある死に関しては、われわれは身近な場合ほど同情も罪悪感も感じない。「アフリカでは何万人と死んでいるんだから、少額の寄付をして数人を救っても無駄だ」。このあたり、トニーホープは同じ話をしているな。

2. 防衛機構defence mechanism:道徳的距離(心理的な距離のある事柄に関しては、情動が呼び覚まされない)というのは一種の防衛機構。医療者が作為・不作為のようなクリアカットな原則が好まれるのも、道徳的な苦悩を味わわずに済むため。しかし、ヤルタ協定のさいに西欧にいた多くのロシア人を(殺されるか収容所に送られるとわかっていて)ソ連に列車で送ることに署名した場合のように、想像力が麻痺していることはしばしば悲惨な帰結をもたらす。合理的道徳のためには道徳的感受性の陶冶が必要。ここもトニーホープ(資源配分の章)。

3. 合理主義的人間rationalist man:防衛機構が働かない合理主義的人間は、常に(第三世界のためにもっと寄付しなければという)罪悪感に悩まされ、ウツになるかもしれない。防衛機構は、そういうことのないためにわれわれを守ってくれていると言うことが可能かもしれない。

4. 困難と直観的基礎:直観に反する合理主義的な道徳に従って生きることは困難だ、という批判のほかに、合理主義的な道徳は直観的魅力がないためにそもそも人々に希求されもしない、という批判もある。他人に対する全体的結果を考慮しない直観というのは、心理的障壁がなくて従いやすいかもしれないが、結局のところ他人に対する関心ではなく、利己的な関心に発しているのかもしれない。
ヒュームは普遍的愛情などないと論じているが、それは正しい(人性論、3の2の1)。このような感情の限界は、未開人には似つかわしいが、時間的にも空間的にも遠くの存在に大きな影響力を及ぼすことのできるようになったわれわれにとっては、正当化できないものである。
#シンガーもやっている、直観はわれわれの住む環境の変化についていっていないという議論。
根強い直観にどれぐらい抵抗して合理主義的に行為できるのかというのは、実証的な問いであり、今後の研究が待たれる。
#育ちが悪くて直観が適切に育っていない人(≒ネ申or火星人)なら大丈夫です!

5. 道徳的保守主義:深く染み付いている前-反省的な態度を大きく修正してはならないという保守主義には、二種類ある。
純粋な道徳的保守主義は、現在の信念や態度がすばらしいものであり、修正すると悪くはなれど善くはならないという理由から変革に反対する。こういう人については言うべきことはない。(グラバーは、信念の一貫性や直観と理論の整合性は問題にするが、根本的に発想の違う人に対しては、言うべきことはないという態度を取る。)
功利主義的な道徳的保守主義は、深く染み付いた道徳的態度を修正すると、すべり坂で大変なことが起きると反論する。さまざまな態度は相互依存しているため、嬰児殺しを認めると、強制収容所に対する心理的抵抗感も薄まるとされる。しかし、こういう議論は実証的(心理学的)裏づけが弱いため、(帰結が不確かな状況においては)漸進的改革を望む理由にはなっても、それ以上にはなりえない。

われわれの防衛機構は、間違いなく、われわれが大きな心理的不快感を感じないようにしてくれる。そして、われわれの幸福の大部分が依存するところの、プレッシャーからの自由に大きく貢献している。そういう意味で、防衛機構を温存する明らかな理由がある。しかし、問いは依然として残る。「不幸や生命の損失がどれだけ大きかったとしても、われわれはそうしていてよいのだろうか?」 p. 297

この一文で終わり。かっこいいなあ。しかし、こういう感情に訴える手段も今ひとつだ。宇宙の視点を、感情に訴えることなしに推奨することはできないものか。