定時起床。しばらく雑用。少しだけ読書。シリアル、朝刊。
朝、娘は妻に任せて自転車で大学へ。メールを書いてから某原稿のための下準備。加藤尚武先生の文章を少し検討する。
お昼、少し死んだように仮眠。
お昼すぎ、百万遍の某コンビニに買い出しに行き、研究室で昼食。
午後、某原稿を書き出す。何か気が重くて辛いががんばる。楽しい文章だけ書いて暮らせるとよいのだが。あっという間に夕方に。
夕方、帰宅して少しスイッチで遊ぶ。
夜、夕食。夕刊。食後、少し某原稿の作業。井上達夫先生の文章を少し検討する。
夜中、シャワー。寝るべし。
さて、がんばって原稿書こう
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
その前に、ちょっと某先生の主張を見ておこう。グドールの野生生活と文明化生活の間にディスタンスを作るという提案はよいが、新興感染症対策としてどこまで現実的か。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「感染病(ママ)は公共的、遺伝病は家族的、生活習慣病は個人的である」(加藤尚武)、という簡潔な表現はよい
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「生命の危険に関する情報の不正をなくすための機関を作る」(加藤尚武、以下同)。日本のPCR検査数が少ないために感染者数が少なく見えるという話と、中国のデータに疑問が多いという話は、両方ともを「不正」とまとめられるのか。どういう機関だったら不正を防げるだろうか。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「日本の政府は、「強制なきコロナ対策」という理念でスタートした。「安全は自由に先行する」という原則を忘れていた。…政府の権力化は促進される。」ここは感染症対策の歴史的経緯の問題がある。忘れていたのは感染症の恐しさではないか。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「日本では、PCR検査数の制限という政策を強力に推し進めようとしていた勢力がくずれて、途中からPCR検査数の増加政策に転換したように見える。」この点はいのたつ先生の「コロナ・ラプソディー」も参照してよく考える必要あり。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「中国は民主化していないからウイルス鎮圧に成功したともいえる」。民主化の度合いと感染症対策能力は反比例するか。また、先生、中国のデータは疑問が多いと書いていたのでは…
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「アメリカの自由主義医療制度、イギリス、イタリア、ドイツ、日本の社会医療制度、中国の軍国主義+不十分な近代化医療という三つの制度が、コロナに対する対応能力でテストされた」。今回のような感染症対策は極端に言えば医療制度がなくても対応できるかもしれない。問題は医療だけではない。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
冷戦後に「格差の拡大策が採用されて、それがアメリカの死者を増やした。日本でも、平時に国債発行で景気刺激をし、非正規雇用を導入して実質的な賃金カットをするという政策が、医師数、集中治療室数、…をギリギリまで減らすという状態を作り出していた」
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
そこまで一般化できるかわからないが、保健所数が少なくなっていたことなどは合理化の影響だろう。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「コロナ感染は、民主主義の限界を示した。国民の生存をかけた問題の扱いに関して、国の最高の専門家すらもほとんど理解していない方式が採用された。…民主主義は、最善の公共選択が一般国民の協議に基づいて行われる可能性のうえになりたつ。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「高度の科学技術が発達した文化では、「民衆の支配」によって最善の選択に達する可能性がない」。自粛要請の前提となる疫学の推計を理解できる人がほとんどいなかったということを問題にしているようだが、専門家しかわからない公共選択というのは他の領域でもありそうなものだが
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
専門家に任せる、あるいは信頼できる専門家を選ぶ、というのも民主主義的選択としてありうるのではないか。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「官僚や政治家に関して、男女平等がもっと進んだ方がいいという考え方は認められているが、それ以上に、文理平等が推し進められるべきではないだろうか。知識をもつ専門家を官僚組織の中に隠しておいて、国会では隠れた筆者の紙切れを大臣が読み上げるという「民主主義ごっこ」ではなくて…
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「その理由を直接に理系の専門家が提案し、審議して、そこに国民の声を反映させるようにしてもらいたい。どうしたら「民主主義ごっこ」をやめることができるのか。」 政党が理系クオータを作るとか?
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
民主主義の限界というのは、疫学の専門家の言うことを市民が理解できないのにまともな公共選択ができるのか、という話と、政治家が文系ばかりで専門家の話を理解できないまま審議していてまともな公共選択ができるのか(民主主義ごっこ)、という話の二つがあるようだ
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
理系の専門家が政治家になったら一つ余計な要素が減ってよいかもしれないが、それで民主主義の限界は克服されるんだろうか。目指しているのはテクノクラシーというやつ?
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
さて、原稿。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
ヒトゲノム計画の歴史
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
The Human Genome Project Transformed Biology and Medicine https://t.co/pMzq32E2PR #受信箱 #feedly
ビーチャムらが3Rに代わる6原則を提案、動物実験
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
Is it time to replace one of the cornerstones of animal research? | Science | AAAS https://t.co/g4EE7rkiHB
人工知能の倫理
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
If AI Is Going to Help Us in a Crisis, We Need to a New Kind of Ethics https://t.co/pC3ubVhW8A #受信箱 #feedly
使い回しだがとりあえず1000字ぐらい書いた。あと8000字
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
2200字ぐらい。あと6800字ぐらい
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
4400字ぐらい。折り返しか。しかし、今日はもうこのぐらいだな。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
ちょっといのたつ先生の「コロナ・ラプソディー」も見てみる。どこもとてもおもしろいが、同調圧力のところを見てみたい。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「特措法…の下では、政府・自治体は移動制限や営業制限に関して、罰則も伴う法的強制力のある規制ができない建前になっており、それに代えて「要請」という名の「お願い」や、「指示」という名の「お説教」で同調圧力を人々にかける」
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「特措法が、移動・営業等に関して政府・自治体にじゅけんしている要請や指示は、インフォーマルな事実上の圧力を加える行為にすぎず、法的強制力のある規制ではない。これでは、「なぜ服従しなければならないのか」という人々の審問に法的根拠をもって答えることはできない」
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
そうなんだけど、そうするとこれは道徳的なサンクションということになるのだろうか。研究倫理規制にしても、終末期医療にしても、日本には法とも道徳ともつかない不思議な規制の領域が広がっている
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
特措法は憲法29条3項の「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」との定めをないがしろにしている、という指摘(35ページ)もそうなんだろう。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「「正当な損失補償への権利」を休業等で経済的打撃を受けた人々に認めた上で、財政成約から補償額の割引や分納を求めることと、「正当な損失補償への権利」を否定して、政府の「恩恵」として涙金の支援金を彼らに配ることとの間には決定的な差がある」
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「政府の本音の狙いは、法的強制力ある規制は正当な損失補償負担への法的責任を伴うため、これをバイパスして、事実上の規制圧力を行使することにある」たぶんそうなんだろう。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「緊急事態宣言で、政府が要請や指示を超えた法的強制力のある規制をできるようになると、その規制が濫用され」るというのが反対論だが、「そのような濫用を抑止するためにこそ、国会、司法、メディア、そして究極的には国民自身が政府を監視し統制するという立憲民主国家のシステムが存在するのである
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
また、「法的強制力のある規制ではなく、事実上の同調圧力に頼る方が、無責任な権力の濫用を招きやすいのである。…「要請」や「指示」という事実上の同調圧力は、法的強制力がないことがまさに口実とされて厳格な法的統制を免れ、恣意化しやすい」
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
これはよいポイント。道徳的サンクションはコントロールが効きにくいという問題がある。ただ、ここでいう「要請や指示という事実上の同調圧力」の同調圧力ってどういう意味なんだろう。同調圧力というのはpeer pressureじゃないのか
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
同調圧力という言葉は朝日新聞のデータベースだと2000年代から急に使われるようになったようだが、これもどういうことなんだろうな。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
第三に強制力がないことが正当な損失補償をしない言い逃れに使われている。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
第四に、「日本人の同調圧力追従傾向利用論」については、「異端分子とみなされた者を国家ではなく民衆が差別迫害する「社会的専制(social tyranny)」をも、協調的同調はもたらしうるのである。」
その例として、コロナ差別、コロナ被疑者の他に、「自分が勝手に非協力者のレッテルを貼った人々に対して、様々ないやがらせを行う「自粛警察」と名付けられる人々の行動が広がりつつある。これなどは、戦争非協力者とみなされた人々を「非国民」として迫害した…「隣組」や「自警団」さながらである」
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
「法的強制力ある規制に代えて、社会のインフォーマルな同調圧力に依存する「要請」や「指示」などという措置を擁護するなら、それがまさに、彼らにとってもおぞましいはずの社会的専制を惹起する自壊的帰結をもちうることを自覚しなければならない」
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
この指摘はとても重要。しかし、疑問なのは(1)法的強制力をもたせたら、このような隣組的な社会的専制は起きないのか。(2)道徳的サンクションを、社会的専制に至らぬ程度で発動させる仕組みは作れないのか、ということ。世論の暴走が問題になりうるのはわかるが、世論による社会規制もあるはず
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
法的強制力をもたせると、警察が動く必要が出て、それはそれで市民と官憲との険悪な関係が出てくる。外国では射殺される事例もあった。法的サンクションを用いた方がよいのかどうか、これらの論拠だけでは明確には言えないのではないか。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日
そこでナッジですよ。
— 児玉聡 (@s_kodama) 2020年6月27日