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立身出世主義―近代日本のロマンと欲望

立身出世主義―近代日本のロマンと欲望

第1章は、身分に応じて「分を知る」ことが求められた士農工商の江戸時代にはなかった「立身出世」という発想が明治時代に生まれた、という話と、米国の「サクセス」がピューリタンエートスに支えられていたのに対して、日本の「立身出世」は素朴な社会ダーウィニズム(生存競争、および敗者になることに対する恐怖感)によって支えられていたという話。

第2章。「勉強」はもともと「努力する」「無理をする」という意味だった(「勉強しまっせ」)が、明治10年ごろに、「学習する」という意味に転じた、という話。

『学問のすゝめ』に触発され、知識の習得をつうじ立身出世するというアンビシャスな知識青年たちにとって「勉強」はトレンディーな言葉だったのである。勉強は身分家柄にかかわらず、また才能によらず、ひたすら努力して学問した者が賢人になり富貴になるという大きな物語を背後にもっていた。伝統的な用語である「学ぶ」や「学問」には、聖人への道という道徳的修養の残響があるのに対し、新しい用語「勉強」はそうした残響を消去し、徹底的に現世的な意味(富貴)がこめられたからである。(28頁)

かくて勉強のコノテーション(暗黙裡の意味)はつぎのようになる。勉強はもともと勤勉の意味であったから、それが学習の意味になっても勤勉の意味は失われなかった。勉強は刻苦勉励をともなっていなければならないものだった。いまわれわれが子どもに「勉強しなさい」というときに、それは単に学習をしなさいといっているわけではない。ひたすらな努力と勤勉を要求している。単に成績がよくても勉強したことにはならない。伝達されているのは勤勉のエートスである。また学力は努力によって向上するという因果関係、(中略)「努力=教育主義」が伝達されているのである。(30頁)

だそうです。次。明治20年代ごろには地方の少年に向けて『東京遊学案内』なる雑誌が毎年1回ないし2回発売されていた。

まず遊学者への注意がなされる。東京へ行けばなんとかなると考えている者がいるが、それは「架空の策」であって危険な考えである。学資は年額80円から120円必要である。また東京の学校に入学するときに、東京在住の保証人が必要である。上京の前に保証人を準備しておくこと。上京したら衛生に注意しなければならない。とくに肺結核は不治の病である。風邪のときに感染しやすいから風邪をひかないこと。また脚気も危険な病気である。湿度の高い下町を避けて、高台にある山の手に宿をとるのがいい。とくに学生は運動不足になってさまざまな病気の原因になる。学校から遠隔の地に宿所を定めるのがよい。さらに東京へ来て政治熱に浮かされることのないように、とも注意される。政治熱に罹って学業を忘れて大言壮語して壮士のなれの果てにならないことだ。31頁

おもしろい。オレも政治熱に浮かされないように注意しよう。
次。明治26年の東京の下宿学生の生活の典型。

午前8時〜9時 寝床で煙草を燻らしながら、新聞あるいは昨夜から読みかけた小説を読む。朝食。下宿の女中にふざけたり、下宿仲間とたわいない雑談。
午前9時〜午後2時 まだ下宿でごろごろしている。学校に通うものは、二割。
午後2時〜6時 下宿生の一割は散歩、二割は議論、相撲、詩歌の高唱、剣舞、七割は月琴や尺八、ハンドオルガンなどの練習。小説を読む、卑猥な雑談。女中に命令して、お茶や酒。
午後6時〜12時 七割外出、三割下宿にとどまる。下宿にとどまる者のうち読書する者は一割程度。外出の三割は友人訪問、あとは寄席、玉突き、揚げ弓、青楼にいて翌朝下宿に帰る。35頁

おもしろい。これの出典が「下宿屋楼上書生の日課」『反省雑誌』(1893年1月号)というのも笑える。『反省雑誌』の他の号も読んでみるべきか。
読売ウィークリー』なんかも、こういう特集をやってくれるとおもしろいのだが。

明治初期のように、勉強の結果、大臣や参議のような大きな社会移動(中略)をしていく時代にあっては、勉強立身のイメージは明るく雄大なものでありえた。短期間に政策決定の重要な地位に就いたから、かれらの勉強立身は私的な功利主義を超えたものとして了解されえた。(以下略) 36頁、太字強調オレ
しかし、このような[個人の栄達が家名や郷党の名をあげ、同時に国家に寄与するという理想化された]勉強や立身出世イメージは長く続かなかった。しだいに「人材過多」や「教育過度」の時代になり立身出世市場が逼迫し(中略)、勉強はゼロ・サム競争である受験勉強になる。(中略) 勉強立身に公的意味を読み取ることが困難な時代になる。勉強立身は我利我利私欲主義にしかみられなくなる。
(中略) しかし、近代日本社会にあっては勤勉や努力はそれ自体として価値だったから、勉強の「努力」の側面が、功利主義のマイナスイメージを中和することもできた。(以下略)
勉強をめぐる意味が世界を大きく転換するのは戦後の高度成長以後の社会においてである。努力や勤勉がそれ自体としての価値をもたなくなりはじめた。いまや努力主義にも功利主義の匂いが嗅がれるだけでなく、努力や勤勉は才能のなさや余裕のなさに読まれてしまう。このとき勉強のマイナスイメージを消去する中和装置がなくなってしまう。(37-38頁、太字強調オレ)

なるほど、まず、勉強の大義名分(立身出世を通じた社会貢献)がなくなり、そのうち勉強=努力の価値も低く見られるようになった、と。努力をしたり汗をかいたりするのはダサくて、最初から能力に恵まれているのがカッコいいというわけか。そういえば先日の新聞でジャンプの「友情・努力・勝利」という価値観から「努力」がドロップされつつあるという記事があったな。
功利主義」の使い方が気になったのでメモがてら強調しておいた。

いまの子どもが勉強しなさいといわれても素直になれない背景は単に学習を嫌がる怠け心だけではない。勉強という言葉が含意する努力主義や功利主義的な学問観に道徳性や実用性ではなく「野暮なダサさ」を、その背後にあるダーウィニズム的世界観に達成への動機づけではなく「時代錯誤」を、上昇移動志向に希望ではなく「いじましさ」を感じとってしまうからではなかろうか。(38頁)

仮に努力が価値を失ってしまったというのが事実だとして、そういうものの見方はどこから生じてきたのだろうか。バブル崩壊でいくら努力して水の泡になるという経験を見たから?

第3章。明治40年以降は受験戦争が始まり、予備校も次々と設立されている(中央大学も予備校を作り、そこに和辻や岸信介が通ったというエピソードあり)。大正時代に入ると、受験雑誌も出る。目玉記事は合格(失敗)体験記。次はその1例(1915年のもの)。第一高等学校に合格した学生。

……日々の日課だが、
午前4時離床 冷水浴、深呼吸。
冷水浴、之は僕も2,3年前からやつてゐるが、非常に効能があつたと思ふ。特に御勧めする。
晴天ならば、4時半から6時まで大抵散歩する事にした。之も実際効能があつたやうに思ふ。朝のフレツシユな空気を吸ふて、川のせゝらぎを聞きながら、堤防の上を散歩したり、又は市の東部にある夢香山に登つて、未だ明けやらぬ眠れる市街を眺めながら「ハーモニカ」を吹くなど殊に良い。頭がクリーアになるからね。
雨天の時は入湯と決めた。
6時から7時迄は、新聞を読んだり、朝飯を食つたりする。
7時から正午迄は、書斎に籠城してコツコツやる。
正午から1時迄、新聞、昼飯。
1時から2時迄、午睡、之は人によつて違ふが、僕は確かに良いと思ふ。
2時--6時、勉強。
6時--7時、夕飯。
7時--9時、勉強。
9時就床、寝る前には必ず柔軟体操をやることにした。
勉強時間は都合11時間となる、然し之れだけは是非やらなければならない。試験前になって悔むからね。(50-51頁)

田舎にいる中学生はこういうのを参考にして「刻苦勉励」したそうだ。
オレはとくに何も参考にしなかった気がするが、浪人生のころは、朝は5時ごろに起きて、NHKの「朝のバロック」を聞いたあと、旺文社の「ラジオ大学受験講座」を聞き、それから電車で大阪の某予備校に行って夕方まで勉強して、帰宅してから復習やら予習やらして夜中に寝ていた気がする。今思えば、あのころは憑かれたように勉強していた。高校が進学校じゃなかったのでほとんど何も教えてくれなかったから、そのぶん予備校での勉強が楽しかったのだろう。努力すれば結果も付いてきたし。
まあ、それはともかく、先に読み進めよう。