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丸山真男―日本近代における公と私 (戦後思想の挑戦)

丸山真男―日本近代における公と私 (戦後思想の挑戦)

「俺はコーヒーがすきだという主張と俺は紅茶がすきだという主張との間にはコーヒーと紅茶の優劣についてのディスカッションが成立する余地はない。論争がしばしば無意味で不毛なのは、論争者がただもっともらしいレトリックで自己の嗜好を相互にぶつけ合っているからである」(18頁、丸山『自己内対話』252頁)

あれ、情動説の説明ような話をしているな。日本の論争の不毛さを批判した一文らしい。

「おれの丸山真男論が、丸山の方法、思想、その発想の根拠を押えきっていることは丸山真男自身がよく知っているはずだよ。〔中略〕丸山真男なぞ、おれが論じた以上でもなければ、以下でもない進歩ジャーナリズムに弱いただの学者だよ」(25頁、吉本隆明「退廃の名簿」、『吉本隆明全著作集』13巻661頁)

吉本隆明って、この発言だけを見ると、相当イッてるな(脳死についての発言もイッていた)。「インテリには大衆は理解できない」と丸山を批判して引導を渡した人、という理解でいいのだろうか。

日本では、自治都市、教会、ギルドのような公と私の中間にあり、私的であるとともに公的でもあるという性格をもつ中間的団体--丸山はこの中間的団体こそが西欧市民社会を形成する核になったとみる--の生育が微弱であった。(242頁)

あれ、丸山も中間団体のような話をしているのか(あとがき295-6頁も見よ)。最近読んだ本のどこかで「丸山はトクヴィルは読んでいるが「多数者の専制」の話しか理解しておらず、アソシエーションの重要性については見逃していたので今日の市民社会論とは異なる」というような話を読んだ気がするが(松下のおじいちゃん?)。

日常生活の「私化」(privatisation)

丸山は、日本は官僚と庶民だけで構成されていて、「市民」がいない、と戦後早い時期にノートに記している、、、大衆デモクラシー化の個人の私化は、丸山によれば、「自由の私化」、自由を憲法で担保された結果生じる私化である。、、、「ここでいう自由の「私化」は、狭い日常生活、とくにその消費面への配慮と享受に市民の関心が集中し、そうした私生活の享受が、社会的政治的関心にまで高められない状態、またはそうした上昇をチェックしようとする動向を指す」(246-7頁、丸山「現代政治の思想と行動第一部 追記および補註」、集6-289)

親が死ぬ思いで稼いだ財産を、息子が食いつぶす、という問題と同じだよな。丸山はいわゆる自由主義者でもなく、民主主義者でもない。またある意味では自由主義者であり、同時に民主主義者でもある(247頁)だそうだが、一言で言えば市民の徳を強調する共和主義者じゃないのかな。アレント。活動。丸山はアレントを読んで共感していたようだ。

この本は丸山や吉本のテキストを読んでおかないとそのおもしろさがわからない高度な本なので、今のわたしにはまだ機が熟していないようだ。そのうちまた読もう。一読したかぎりでは、かなり丸山びいきの本だな。ところどころ丸山批判に対するコメントが感情的なので、コミットメントのない部外者からするとげっそりする。他山の石としよう。

ちなみに、カバーの著者紹介のところを見ると、著者は京大の人環の先生でバックグラウンドは経済学。経済に倫理と公共性を求める立場の発言が多いそうで、また都市計画・まちづくりなどに関しても発言しているそうだ。なるほど。