え、こだまの世界?

A day in the life of...?

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議論の交通整理

交通整理とは、いったいわれわれは何を主題として議論しているのか、という問題です。交通整理をしないとどうなるか。同じ言葉を使いながら、それぞれその言葉に勝手な意味を付して議論していると、まったく議論が実質的にかみ合わない。いわんや新造語が氾濫して、それにカッコいいとか、感じが悪いとかいう評価をつけた議論が滅茶苦茶に多くなると、みんな精神的にノイローゼになってしまう。そこで議論の交通整理をして、争点を明確にし、不毛な論争をできるだけなくしていく。つまり交通整理のお巡りさんの役が必要になってくる。66頁

あれ、丸山先生もつとにこういうことを言っているのか。続きもおもしろい。交通整理がなさずに放っておかれるとどうなるか。

コンセンサスという名のドグマ

他方では、混沌のなかで不毛な議論ばかりが氾濫すると、逆に、これじゃどうしようもないじゃないか、何とか思想的な秩序づけをしないとしようがないじゃないか、という考えが有力になってくる。混沌の反動として、天下の議論を画一化した方がよいということになる。これが第二の問題です。画一化というと、はじめからわるくひびくけれど、これを国民的合意にしてというか、政府などがコンセンサスを決めてしまおうとする。それにもいろいろな形があって、たとえば、教育勅語などがのちに出てくるのも、こういう要請が背景になっています。国民が遵奉する一つの信念体系(Belief system)を公権力がつくり出していく、それによって新国家にふさわしい一種の正統が確立する。(中略) どんな純良な説でも、単一の説の支配は必ずその社会を堕落させる(中略)。けれども、そういう、ドグマによる秩序の統一は、さきほどのアナーキーの精神状況への反動として出てきやすい。66-7頁

つまり、不毛な議論を野放しにする⇒公権力の介入によるドグマ(「コンセンサス」)が確立される、という流れが生じやすいということだ。思想の自由を守るには、絶えず交通整理を行なって生産性の高い議論がなされなければ、飽きられて外部の介入を受ける可能性がある。

話は変わるが、某氏が『「文明論之概略」を読む』を読む会をしていたと言っていた。そういう名前の会が他にもたくさんあったのかもしれない。