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ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

ひさしぶりに真面目に一冊読んだ(ショーペンハウアーの教えに従い、なるべく本は読まないようにしている)。『監獄の誕生』を中心に、近代の「合理性」に異論を唱えるミシェル・フーコーの思想を熱く語っている本。

以下、いくつか印象深い文章をメモ。

読者の中には、自分より博識な人間から知らないことを教えてもらいたい、知識の抽斗を増やすのが読書の目的だと思っている人もいる(…)。だが、「この一冊で○○が分かる!」が好きな人に一度自問してほしいのは、知識の抽斗を増やし、中身を一杯にしていったい何になるのかということだ。そんなことに知的な魅力が少しもないことは分かりきっている。(33頁)

犯罪と刑罰の歴史、道徳の歴史とは不正と欺瞞の歴史なのだ。この意味で、フーコーは『監獄の誕生』で彼にとっての「道徳の系譜学」を示してみせた。そのなかに読者は、自分が警察や安全安心パトロールに腹を立てる理由を発見することだってできるのだ。そしてもっとたくさんの人が、『監獄の誕生』やフーコーの意地悪で秩序転覆的な権力観に触れて、警察の仕事とは市民を監視することだという事実に気づき、また不快に思うべきことを不快に思いつづける力と元気をフーコーから引き出してほしいと願っている。(214頁)

フーコーの著書はどれも古い時代から説き起こし、独特の迂回路を経て現在へとつながっている。かといって現実との関係が薄いかというとむしろ逆で、なぜこんな昔のことを書いているのに強烈に「今」が浮かび上がるのか不思議なほどだ。それが彼の人気の秘密なのだろう。(229頁)

一点、気になったのは、「規律の内面化」を全面的に批判するのかどうかという点(119-120頁)。規律の内面化は、もちろん倫理学や道徳教育では重要なテーマであり、たとえば無闇に人に暴力をふるわない、約束は守る、落ちているお金は交番に届ける、といった規律は(ヘア的な)功利主義的にも内面化した方がよいと思われるものだ。こうしたあらゆる倫理規範は権力による許しがたいものとして批判(抵抗?)されるべきものなのか、あるいは内面化すべき規律と、そうでない規律があるのか。すべてを一度は疑うことは大事だが、その後に、良いものと悪いものを選別する基準が必要になるだろう。その基準は与えられているのだろうか。