え、こだまの世界?

A day in the life of...

某名誉教授の本を読む

応用倫理学のすすめ (丸善ライブラリー)

応用倫理学のすすめ (丸善ライブラリー)

約10年ぶりに手にしました。

どのような合意が働いているか。それを発見し、分析することは倫理学の課題である。
どのような合意ならば安全か。それをチェックすることは倫理学の課題である。
どのような合意が最善であるか。それを提案することは倫理学の課題である。
この課題を解くために、倫理学者は聖人の言葉を読み上げたり、解釈したりしているだけでは決定的に不十分である。私たちの毎日の生活の中に、たいていは日常的な悩み事として、時には新聞記事とか、スキャンダルとかいうかたちで現れてくる倫理学的問題を取り上げなくてはならない。(v頁)

某名誉教授の場合は、「合意」であるからして、大庭先生の一人称単数「わたしはいかに生きるべきか」ではなく、「われわれは社会運営のルールについて、どういう合意をしており、またするべきか」というルール作りが倫理学の課題と考えているんだよな。

国民の合意形成の方法論として、応用倫理学が役立つまでに、この学問を鍛えていくことが私の究極の目標である。、、、
立法者としての国民の判断の尺度を絶えず統合に向けて高度化していかなくてはならない。、、、多数決による決定が国民の統合された意思の表現となるためには、意見の統合のプロセスが絶えず進行していなくてはならない。、、、[世論の]統合の方法を明確化する学問が、今までは存在しなかった。
その学問の基礎的な素材は、ケース・バイ・ケースの小さな合意である。その合意の内容を分析し、チェックし、提案する作業が、応用倫理学の営みである。本書では、個別的なケースから、その背後にある原理・原則を探し出すという形をとった、、、(185-187頁)

なるほど、討議民主主義実現のために、合意形成のプロセスを分析し、より高度化する必要がある、というわけか。やはり大庭先生が「[応用倫理学的な問題については]人々の公共的なコミュニケーションをつうじて合意を形成していく以外には対処できない」というのに対し、某名誉教授は、その合意形成に貢献できる倫理学を作っていかなければならない、という問題意識があるわけだ。
これを応用倫理学と呼ぶべきか、立法論と呼ぶべきか、はたまた松下の老先生(尊称)のように「政策思考型」(政策型思考)と呼ぶべきかはさておき、ここに倫理学はなんらかの役に立てるのではないかという意識はわたしも共有する(と言うか、やはり知らないうちに某名誉教授に洗脳されていたようだ)。問題は、倫理学の立場から、この合意形成のあるべき姿について、どのような貢献ができるかだ。
「政治哲学も法哲学倫理学の一分野です。みんなモラル・フィロソフィーですから」という立場からすれば、何かできそうだが。そう考えてみると、ホッブズ以降のイギリス哲学の主流は、大庭先生の考えているような「わたしはいかに生きるべきか」型の問題設定ではなく、「個人と国家(および社会)の関係はどうあるべきか」「国家の権力の限界はどこにあるか」うんぬんという問題設定なんだよな。某名誉教授の合意形成云々も、この流れにあると言える。
ホッブズやヒュームやベンタムは生きる意味って考えたのかな。実存主義の洗礼を受けてないからあんまりそういうことを考えなかったんだろうか。精神の危機を迎えたミルはきっと考えていただろう。しかし、どう解決したのかな。愛? 美的経験?

どうでもいいが、187頁の「ハート・ダブリン論争」というのは恥ずかしい誤字だな。こないだの本でもアシロマ会議を「アシモア会議」って書いてたし、、、(アシモフとの連想か?)。次の本では誤植がないよう、校正を手伝うことにしよう。