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応用倫理学について考える

岩波 応用倫理学講義〈7〉問い

岩波 応用倫理学講義〈7〉問い

尊敬する某大庭先生の文章から(79-80頁)。

そう遠い昔でもないのだが、全国の倫理学者が集まる学会で、議論を取り仕切っていた"応用倫理"の著名な先生が、こう宣言した。いわく、これからの倫理学は「実践的な法哲学」でなければならず、「人生、いかに生きるべきか」などという問は、倫理学と無縁である、と。、、、

これ、詮索しても意味がないかもしれないが、やはり某名誉教授のことなんだろうか。誰か知っている人がいたら教えてください。

こうした"応用倫理"ブーム、とりわけそこに巻き込まれている若手の倫理学徒の現状には、目を覆いたくなるものもある。、、、こうした「現場に密着し・現場に根をおろした応用倫理」の「実践的な業績」競争には、もはや哀れを誘うものさえある。

茶化してもうしわけないが、「倫理学徒」という表現がおもしろいな。「倫理学徒出陣!」「お父さん、お母さん、さようなら。応用倫理に逝ってまいります」「倫理学に無事帰っておいでよ」とか言って。

もちろん、諸種の「現場」での問題にたいして、倫理学の立場から考察を深めることは重要である。私も私なりに、そうした試みをも重ねてきた。しかし問題が、より生々しく、しかも社会的諸制度が絡めば絡むほど、倫理学者が「倫理規定の専門家」として、学の名による処方箋を提示できるほど、現実はなまやさしくはない。そうした問題は、実際には、人々の公共的なコミュニケーションをつうじて合意を形成していく以外には対処できないし、そのために問題の深刻さを突き出しうるのは、ノンフィクション作家の肺腑を抉る文章であって、倫理学者による二番煎じではない。

ノンフィクション作家というのは、脳死問題における中島みちのようなことを考えているんだろうか。一般に優れたノンフィクション作家がアームチェアの倫理学者よりも事態をよりよく把握している可能性は高い。自分のことを省みると、その点は認めざるを得ない。
しかし、ノンフィクション作家が「肺腑を抉る文章」を書けば、「人々の公共的なコミュニケーション」を通じた(正しい)合意形成ができるかといえば、そうではない。大庭先生もそれだけで十分だとは考えてないだろう。
そうすると、公共的なコミュニケーションを通じた合意形成に倫理学はなんらかの(ノンフィクション作家による貢献以外の)貢献はできないのだろうか。その点はあとで某名誉教授の本を参照してみよう。

専門家としての倫理学者の出番は、きわめて限られている。そして事実、そうした問題についての"学際的応用倫理レポート"を読めば判然とするように、倫理学者に固有の寄与として読める部分は、たとえば「当事者の事実的満足度をもって施策の善悪の基準としていいのか」等々といった、きわめて古典的な倫理学の議論に尽きている。しかるに、そうした倫理学固有の議論にとって本質的なのは、「何をなすべきか」という問は、一人称で発せられるということ、あるいは同じことだが、
自分の人生、他人との日々の関わりこそが、最大の"現場"であるという素面を失わないことである。さもなくば、私たちは、自分の目にある梁を放置したままで他人の目の塵についての処方箋を得意然と書くもさながらの愚挙を犯すことになる。

「しかるに」以降のつながりがよくわからない。「しかるに」という接続詞があいまいなんだよな。andなのか、butなのか、by the wayなのか。
要するに、応用倫理学は人様がどうすべきかを云々言っているが、倫理学者は「わたしがどうすべきか」をまず論じなければ、肥満の医者が「あなたはメタボです」と患者に宣告するようなものになる、ということか。
しかし、「わたしはどう生きるべきか」も重要だが、「われわれはどう生きるべきか」も同じくらい重要な倫理学の問いではないのか。自分の家のことも大事だが、自分の社会のことも同じくらい大事だ。(一人称というのは単数形、あるいは複数形? 「わたし」? 「われわれ」?)
まあしかし、社会の制度は所与にして、「わたしはどう生きるべきか」を問うのが倫理学であり、一般の倫理学者には社会の制度について口出しする資格も知識もないという立場もありうるだろう。このような批判を考慮に入れつつ、わたしが倫理学者(倫理学徒)として何ができるかを考えなければならない。